「よい看護」の現場を もっと見せていこう

文と写真:錢 淑君

(INR日本版 2012年秋号, p.107に掲載)

 

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天津市で行われた全国職業学校競技大会にて各国の学生が交流を深めた。写真は千葉大学看護学部の学部生たち(中央2人)と、カナダの学生たち。

 

中国の教育部部長(文部科学大臣)袁貴仁は、中国政府と国連の教育科学文化機関が共同主催した第3回国際職業学校競技大会の開会式の中で、中国が今後「人口大国」から「人間資源大国」に転換するためには、職業教育が重要な役割を果たすと述べています。

 

2012年6月26〜29日、天津市における一大行事として、全国職業学校競技大会が行われました。国際的な職業教育の水準を目指して、今年度は50あまりの地域・国から、さまざまな団体が集まりました。

 

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「専門職の自律とチーム医療」

文と写真:木下 澄代

(INR日本版 2012年秋号, p.106に掲載)

 

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レゴで作成された施設の模型が待合ホールに置かれている。日本のような外来機能がないので、待っている病人は多くない。

 

皆さんもすでにご存じのように、福祉国と言われるデンマークの医療は国民の税金で支えられ、病院のほとんどが公立病院です。すべての大学が国立なのですが、しかしコペンハーゲンにあるものを除き、大学病院はすべて県立です(デンマークでは県に当たる自治体はregigionと呼ばれています)。

 

病院経営費は県が受け持ち、医師・看護師・アシスタント・検査技師その他すべての病院職員は県に雇われる地方公務員です。病院長をはじめ看護師を含むあらゆる職員のポストはすべて公募になっていて、本当にその仕事に就きたい人が空いたポストに応募してきます。そして採用には現場のチーフと職員の代表による評価が、重要なものになります。

 

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「”地域耐性”と助け合い」

文と写真:杉江美子

(INR日本版 2012年夏号, p.103に掲載)

 

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トロントのシンボルの一つ「CNタワー」の高さは553.33メートルで、世界で5番目に高い自立式建築物。

 

昨年3月の東日本大震災は筆舌に尽くしがたい出来事で、遠くカナダに住んでいてもニュースとともに矢継ぎ早に入ってくる映像は非常に強烈でした。

 

カナダの多くの友人・知人、職場の同僚が私に、日本の家族・親戚・知り合いは大丈夫か、日本は大丈夫か、何か手伝えることはないかと、幾度となく尋ねてくれました。時には知らない人まで、私が日本人であるとわかると、お悔やみと励ましの言葉をかけてくれました。私を通して日本に向けた言葉だと思います。

 

遠くからニュースや第三者を通じて知り得たことなど取るに足らないのでしょうが、それでも私は改めて「日本人」であることを痛感し、この出来事を通じて日本の「地域耐性」(Community Re­sil­ience)と「助け合い」の精神に驚嘆しました。

 

日本にいれば当たり前のことが、海外からは非常に新鮮に映り、私は単に日本人であるというだけで、そのことを誇らしく思いました。

 

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「生と死と。”魂のいる場所”」

文と写真・山中 郁

(INR日本版 2012年夏号, p.104に掲載)

 

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山間で津波の難を逃れた普門寺を訪れると、県の天然記念物の百日紅が悠然と出迎えてくれました。

2012年3月11日。世界を震撼させた東日本を襲った大震災から、ちょうど1年が経ちました。私はこの日、宮城県気仙沼市総合体育館(通称“ケーウェーブ”)の合同慰霊祭に参加するため、気仙沼市にいました。

 

慰霊祭の代表者の方々の中に、震災当時高校2年生だった被災者の女性がいました。彼女は津波で7人の家族を失ったと話し、その一人ひとりに心のこもったお別れの言葉を読み上げたのですが、おじいさん、おばあさんに続いて、それぞれ中学生、小学生、就学前だった幼い妹たち、そしてお父さんへの手紙と続きました。

 

メッセージを聞きながら、家族7人の最後の一人が、そうであってほしくないと思いましたが、やはりお母さんへの言葉だとわかった時は、言葉がありませんでした。大家族でにぎやかな毎日を過ごしていたであろう普通の17歳の少女が、一晩で最も近い家族を全て失ってしまったのです。
 
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「ものづくりから、 ひとづくりへ」

文と写真:錢 淑君

(INR日本版 2012年夏号, p.105に掲載)

 

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左から2人目が松元先生で、その右が金田先生。

海外へ留学したいと、高2の時から夢を見ていたのですが、実際に東京にきて日本語学校に入ったのは1983年の4月でした。

 

1983〜1984年は中曽根首相の時代であり、対外貿易は大黒字で経済成長が進んでいたおかげで、アルバイトが見つかりやすく、奨学金の申請も現在より厳しい状況ではありませんでした。母親が国立がんセンター(当時)にお世話になったことがあり、日本で看護を勉強するとよいとの勧めもあったので、1年後、千葉大学の看護学部へ進むことに決めました。

 

今でもはっきり覚えているは、入学の面接担当教授が見藤隆子学部長、解剖生理学の石川稔生教授、そして小児看護学の吉武香代子教授でした。入試を受けるまで1年間ぐらいしか日本語を学習していなかったので、質問がうまく理解できていない私の表情を見て、アメリカ留学経験のある吉武教授がわかりやすい日本語でもう一度聞いてくださいました。

 
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