『東日本大震災レポート』には183人もの看護職の方(+医師等6人)にご寄稿いただきました。
壮絶な体験を乗り越えてこられたからこそ書ける名文ぞろいで、編集作業をしていて思わず涙が出てしまうことも…。
「編集部のページ」では、レポートの中からテーマ別にいくつかをピックアップし、ご紹介いたします。
まずは「看護職でよかった」編です。
岩手県立大槌病院は、地震の後の大津波により、2階まで浸水してしまいました。職員はすごい勢いで迫ってくる津波を目にしながら、53名の入院患者を、歩ける人は誘導し、歩行困難な人はシーツに包んで担ぎ、必死で屋上に避難させました。津波が引いた後は、屋上のサンルームと3階に患者さんを配置し、小雪がちらつく大変寒い夜を、真っ暗闇の中、患者さんも職員も皆で身を寄せ合い過ごしました。
以下は、大槌病院の高橋純子さんのリポート(File 3)の一部です。
災害時の医療訓練では、当院は二次救急病院として、搬送されてくる患者さんをトリアージする救急医療の提供者でした。ところが一瞬にして、被災病院としての立場となり、ライフラインが寸断された中での孤立した状態となりました。その中に取り残された患者さんと医療者―「自分たち看護師にはいったい何ができるのか」という思いになりました。その思いから気持ちを一掃できたのは、患者さんの「看護婦さん、看護婦さん」と問いかける声でした。患者さんにとっては、日常の世話をし、常に身近にいる私たちこそが頼りなのだと思えたからです。
あまりにも悲惨な状況にくじけそうになったとき、患者さんが自分たち看護師を必死に頼ってくる姿を見て、「自分が看護師であることに誇りを感じた」というレポートはほかにも多くありました。
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宮城県気仙沼市も甚大な被害があった地域です。気仙沼市立病院は幸いなことに建物は無事で、津波も目前まで迫ったものの浸水は免れました。しかし津波により多くの人命が失われ、多くの重傷者とご遺体が病院に運ばれました。
以下は、気仙沼市立病院の本宮浩子さんのリポート(File 29)の一部です。
震災当日から私はトリアージの黒タッグ係も兼務しました。私が当番の時、50歳代の消防団の方と30歳代の警察官が運ばれてきました。消防団の方は心不全で、奥さんは呆然としていましたが、「主人は、いつも人のことばかり優先して考える人だったから、自分の胸が苦しくても後回しにして、救助活動していたんだよね。ありがとう」と涙を流し、私は「立派でしたね」と申し上げるのがやっとでした。
若い警察官は、溺死の状態でした。片手を上にあげたままで「早く逃げろー!」とまだ叫び続けているようで、私は「お仕事ご苦労様でした」という思いを込めて、いまできる範囲でエンゼルケアをていねいにさせて頂きました。
こういう最後を看取ることに、看護師としての尊い役目を感じました。時計の日付が変わり、外は真っ暗なのに山や空が火災で赤く広がり、雪も降り身も心も氷つくような寒さでした。
今回の震災では、救助活動中に命を落とされた消防団や警察、自衛隊の方々が多くいらっしゃいます。エンゼルケアは看護職の大切な役割の一つです。十分な道具も時間もない中、精一杯のケアをされている看護師さんの姿が目に浮かんでくる、とてもピュアな文章だと思います。
◯ 内容紹介(記事抜粋)
◯掲載写真と撮影者のご紹介