内容紹介その2「原発事故による苦悩」編です。
福島第一原子力発電所の爆発とそれによる放射線物質の放出は、誰もが思いもよらなかった事故ですが、そのために地域住民の方はどれだけ大きな被害を被ったでしょうか。
人生設計の変更を余儀なくされた方は膨大な数にのぼり、地域医療にも、そして医療者自身の生活にも大きな影を落としました。
避難指示区域の住民は強制的に退避となりましたが、屋内退避指示区域や計画的避難区域の医療施設でも、原発事故の影響で職員が次々と避難していき、医療提供ができなくなる病院が出てきました。
「患者さんを見捨ててはいけない」という医療者としての使命感と、「放射線が怖い」という人間ならば当然の思いの間で、医療者として、家庭人として、ひとりの人間として苦悩した経験を綴ってくださった方のレポートは、何度読んでも心が強く打たれます。
以下は、かしま病院の坂本道子さんのリポート(File 40)の一部です。
原発の状況の悪化とともに、いわき市では避難していく人が多くなりました。私の家族も親戚のもとへ避難していきました。私は避難しないと告げると、親に泣かれました。それでも残ると心は決まっていたので、「病院が落ち着いたら、後を追って避難する」と嘘をつき、家族を送り出したのです。
3日後、父親に「あんな恐ろしい思いをしたのに、懸命に生きようとしている人が目の前にいる。そんな命を見捨てては行けない。小さな頃から看護師になりたくてなったのに、ここで残らなかったら、私は何のために看護師になったのかわからない」と自分の気持ちをきちんと話しました。
電話の後、父は「娘を誇りに思う」というメールを送ってきてくれました。
特別寄稿「震災の記録」は、震災時、南相馬市立総合病院に勤務されていた医師・太田圭祐先生が書かれたレポートです。この中にも、多くの職員が避難してしまい、病院機能がほとんど維持できなくなった病院で、入院患者全員を地域外へ搬送するまではがんばろうと奮闘しているとき、遠方に住む普段はあまり話さないお父様から「息子を誇りに思う」というメールが届き、思わず涙が出た、という記述があります。
震災直後から患者搬送終了までの11日間、医師としての使命と家庭人(福島に単身赴任されていました)としての責任との間で揺れ動く心が克明に綴られていて、必読です!
一方で、看護師としての使命と家族への思いに苦しみながらも、苦渋の思いで「避難」を選択した方もいらっしゃいます(File 42)。避難後、精神的にものすごく苦しまれた様子が文面からにじみ出ていて、同じような思いをされた看護職がほかにも大勢いらっしゃるのだと思うと、胸が痛みます。
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双葉厚生病院は福島原発から5km圏内に位置しています。3月11日は地震と津波にあった人が大勢搬送され、看護師の賀村恭子さんも救急処置に追われました。翌12日、思いもよらなかった突然の原発事故により緊急脱出の指示が出され、重症患者のヘリ搬送のため外で待機していたところ、1号機が爆発し、そのときは考えもしませんでしたが、後に自分が被ばくしたことがわかりました。
賀村さんのご自宅は避難指示区域にあり、その日以降家に戻れず、避難所生活を余儀なくされました。賀村さんのレポート(File 35)を読むと、突然の原発事故がいかに理不尽なものかということが胸に突き刺さってきます。
賀村さんは30年以上勤めた病院を退職され、現在は仮設住宅へ避難されている方のサポートを行っていらっしゃいます。
◯ 内容紹介(記事抜粋)