すっかり遅くなってしまいました。『ナース発 東日本大震災レポート』内容紹介その3:「親として、看護師としての葛藤」編です。
被災したナースも、支援に行ったナースも、当然ですが1人の人間としての生活があります。小さなお子さんをもつお父さん、お母さんも少なくありません。看護職として職務を全うしたいという使命感と、親としてわが子のそばにずっといて、守ってあげたいという気持ちの間で葛藤する心を文章に綴ってくださった方も大勢いらっしゃいました。
以下は岩手県立大槌病院の高橋純子さんのレポート(File 3)です。
私は看護師である前に、2児の母親です。いつも頭の中には「子どもたちはどうしているだろう。一刻も早く帰りたい」という思いがあり、眠ることもできませんでした。(中略)
震災後6日目にやっと帰宅することができました。地元は大きな被害を受けて変わり果て、自分の家はありませんでした。子どもたちは避難所だろうかと思いながら小学校に行き、無事に再会しました。看護師として第一線で患者さんを守った自分とは裏腹に、子どもたちに大きな不安を与えてしまったという複雑な気持ちでいっぱいでした。
その夜は、避難所の体育館で、両脇に子どもたちを抱えて眠ることができました。長女は津波のときの状況を「怖かった。校庭からお家が流れていくのが見えた。知ちゃん(弟)もすごく泣いてた」と興奮して話しました。そばにずっといてあげなければいけないという思いになりました。しかし次の日からは、避難所の救護班として声がかかり、やっぱり私は、看護師の一面からは逃れることができませんでした。
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同じく、大船渡病院で震災を体験された山根真由美さんのレポート(File 3)では、ご両親とも不在で大きな不安の中、子どもだけで避難所で過ごしていたお子さんの健気な様子に、涙が出てきます。
次の日から、私は休みをいただきました。家族は皆、無事でしたが、伯父や近所の人たちがこの津波で命を落としました。私の住んでいる町も、変わり果てた光景が広がっていました。
避難所に子どもを迎えに行き、無事に会えたときは、命の大切さ、重さを強く感じました。「避難所で俺たちだけお母さんもお父さんもいなかった。でも大丈夫だったよ。はじめはお母さん、生きているかなと心配したけど、みんなが大丈夫って言ったから待っていた」と言われました。子どもは子どもながらに不安だったと思います。震災後はじめて一緒に寝た夜は、小学1年生の子どもはずっと吐き続け、私の体から離れることはありませんでした。
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岩手県立大船渡病院の佐藤誠子さんは、わが子を預けて災害医療に携わった母親看護師の思いについてアンケートをとり、報告してくださいました(File 6)。
時間を見つけては子どもに会いに帰ったり、保育所に子どもを預けたまま病院に泊まりこんだり、自宅が被災したため実家に子どもを預けたりと、勤務のためにいろいろな工夫をした母親たち。ゆっくり子どもと話したり抱っこできたりしたのは、平均して4日後でした。
アンケートで、今回の震災を経験し、感じたことを聞いてみました。
・医療者として、災害直後から勤務を優先してきたけれども、そうすることで子どもたちの負担は大きかった。
・ずっとそばにいてあげたくてもできない自分が、仕方ないと思っていてもつらい。
・子どもの安否が確認できなかったのがいちばんつらかった。
ほとんどの看護師が、母親としての責任より勤務を優先しました。人を助けたいという使命感、ただそれだけだったように思われます。しかし、母親として子どものそばにいてあげられなかったことがとてもつらかったのは事実です。子どもたちもがんばりましたが、大人たちもがんばったと思います。
704ページという超大作の本書ですが、年末年始のお休みの時期に、今年1年を振り返りつつ、読んでみてはいかがでしょうか。
◯ 内容紹介(記事抜粋)
◯掲載写真と撮影者のご紹介