「生と死と。”魂のいる場所”」

文と写真・山中 郁

(INR日本版 2012年夏号, p.104に掲載)

 

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山間で津波の難を逃れた普門寺を訪れると、県の天然記念物の百日紅が悠然と出迎えてくれました。

2012年3月11日。世界を震撼させた東日本を襲った大震災から、ちょうど1年が経ちました。私はこの日、宮城県気仙沼市総合体育館(通称“ケーウェーブ”)の合同慰霊祭に参加するため、気仙沼市にいました。

 

慰霊祭の代表者の方々の中に、震災当時高校2年生だった被災者の女性がいました。彼女は津波で7人の家族を失ったと話し、その一人ひとりに心のこもったお別れの言葉を読み上げたのですが、おじいさん、おばあさんに続いて、それぞれ中学生、小学生、就学前だった幼い妹たち、そしてお父さんへの手紙と続きました。

 

メッセージを聞きながら、家族7人の最後の一人が、そうであってほしくないと思いましたが、やはりお母さんへの言葉だとわかった時は、言葉がありませんでした。大家族でにぎやかな毎日を過ごしていたであろう普通の17歳の少女が、一晩で最も近い家族を全て失ってしまったのです。
 
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「ものづくりから、 ひとづくりへ」

文と写真:錢 淑君

(INR日本版 2012年夏号, p.105に掲載)

 

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左から2人目が松元先生で、その右が金田先生。

海外へ留学したいと、高2の時から夢を見ていたのですが、実際に東京にきて日本語学校に入ったのは1983年の4月でした。

 

1983〜1984年は中曽根首相の時代であり、対外貿易は大黒字で経済成長が進んでいたおかげで、アルバイトが見つかりやすく、奨学金の申請も現在より厳しい状況ではありませんでした。母親が国立がんセンター(当時)にお世話になったことがあり、日本で看護を勉強するとよいとの勧めもあったので、1年後、千葉大学の看護学部へ進むことに決めました。

 

今でもはっきり覚えているは、入学の面接担当教授が見藤隆子学部長、解剖生理学の石川稔生教授、そして小児看護学の吉武香代子教授でした。入試を受けるまで1年間ぐらいしか日本語を学習していなかったので、質問がうまく理解できていない私の表情を見て、アメリカ留学経験のある吉武教授がわかりやすい日本語でもう一度聞いてくださいました。

 
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「ただ待つばかりの人たちではないのだ」

文:吉野淑代

(INR日本版 2012年春号, p.108に掲載)

 

1996年5月、日本での看護師生活にピリオドを打ち、韓国へ来て15年の歳月が過ぎました。

 

こちらの生活の中でいろいろな出来事がありましたが、とくに猛勉強の末に韓国の看護師免許を取り、韓国の病院で働き始めたことは自分にとって大きな第一歩でした。今は看護師の資格に加え、韓国内で医療通訳士、病院コーディネーターなどの資格を活かしながら、産婦人科病棟の看護師として勤務しています。

 

日々の暮らしの中で、この国の文化や習慣、言葉などに数多く出会い、さまざまな面で日韓両国の違いを感じてきました。

 

看護師としては臨床面の他、政策や制度についても大きな違いを知りましたが、なかでも2011年4月に、看護教育4年制一元化のための高等教育法改正案が国会本会議で通過したことは、韓国看護界の歴史的な大事件でした。この2012年からは、看護専門大学(3年制)33校が、順次3年制から4年制の大学に移行していく予定です。

 

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「オールドタウンで想う、これからの日本」

文と写真:木下澄代

(INR日本版 2012年春号, p.109に掲載)

 

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勤務先の高次性機能障害者リハビリセンターへ通う際に横切る農地にも、風力発電用の風車がある。

 

デンマークではコペンハーゲンに次ぐ第2番目に大きな町、オーフス市にあるDen gamel by(英語ではOld town)に友人と出かけました。

 

ここには国内各地の歴史的に重要な建物が移築され、保存・公開されています。建物は同時代の生活を紹介する生きた博物館でもあり、季節ごとに建物内の展示内容が変わります。例えばクリスマスには市長の住んでいた建物が当時の様相を再現します。リビングルームに飾られるクリスマスツリーは天井まで届く高さがあり、毎年変化する装飾を見ることが市民の伝統にもなっています。

 

12月の日は短く、午後3時を過ぎるともう夕闇が降り始めて薄暗くなります。それぞれの建物ごとに異なる展示をすべて見る時間はありません。常設展示は差し置いて、この時期の特別展示を選んで周ることにしました。

 

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「50人の親戚たちが暮らす村の生活」

文と写真:坪田トーレナース育子

 

(INR日本版 2012年春号, p.110に掲載)

 

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オランダの古い農家ぐらし。隣近所は賑やかな親戚ばかりで日々退屈している暇もない。

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親戚縁者に配布される「家族雑誌」

オランダの南部にある人口3,000人の小さな村で、夫と2人の息子とともに、古い農家で暮らしています。左隣は義理兄一家、お向かいはいとこ夫婦、その他村内だけで、ざっと50人の夫の親戚に囲まれていて、2年に1回は村外の家族も含めた同窓会が開かれます。それに来られない人のために家族雑誌が発行されたりして、毎日退屈する暇がありません。

 

私が来蘭したのは1997年の3月。EUになる前でオランダの通貨がまだギルダーの時代です。SkypeもE-mailもなく、テレビすら契約した衛星放送しか見られない時代で、当時はずいぶんホームシックにも悩まされました。日本では、看護師・助産師として産婦人科との混合病棟や開業産婦人科で働いていたので、その経験をこちらでも活かそうと思っていましたが、現実はそう甘くはありませんでした。

 

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