クリミアでの活躍で一躍英雄となったナイチンゲールは、類まれな知力・思考力・行動力で公衆衛生改革に邁進し、また看護教育制度の確立に努め、それまで卑しい職業と思われていた看護師のイメージ像を飛躍的に向上させました。一方で、「歴史上初の病院建築家」「統計学の母」とも言われるように、彼女の活躍は「看護」にとどまりません。ナイチンゲールが確固たる信念の下に行った既存の枠からの「越境」は、看護にどのような影響を与えたのかについて考えます。
■従来の看護師像からの越境
ナイチンゲールと同世代の作家、チャールズ・ディケンズの長編小説『マーティン・チャズルウィット』には、酒飲みで素行が悪く、だらしなく卑しい中年女の看護師、ミセス・セアラ・ギャンプが登場します。ギャンプ夫人は、当時の看護師の実態を基に創造された人物で、看護改革のきっかけの1つとなったと言われています。上流階級の子女だったナイチンゲールが「看護師になりたい」と告げたとき、家族から大反対されたのも当然と言えるでしょう。
しかし家族との格闘の末、反対を押し切り看護の道に進んだナイチンゲールは、クリミアでの活躍により一躍国民的英雄となります。そして、彼女の意思を代弁してくれる多くの有力な男性協力者を得て、陸軍改革、公衆衛生改革などの国家事業に次々とかかわっていきます。魑魅魍魎が跋扈する政治の世界に、1人の女性看護師が大きな影響を与えたのです。既存の「看護師」像、「女性」像からの「越境」といっても過言ではないでしょう。
また、ナイチンゲールはそれまで体系化されていなかった看護の専門教育制度の確立に心血を注ぎました。ナイチンゲール看護師養成学校の卒業生の評価は高く、海外から教師派遣の要請も多くありました。ナイチンゲールはそれ以前の看護師像を一転させ、看護師の地位を飛躍的に向上させたといえます。
■看護領域から他分野への越境 ①建築
クリミアの戦地に赴いたナイチンゲールが目にしたのは、負傷兵が収容されている野戦病院や兵舎の劣悪な環境でした。日が当たらずジメジメして、至るところにカビが生え、ネズミが這い回っている床に、負傷兵は直に隙間なく寝かされていたのです。
クリミアから帰国後、ナイチンゲールは戦闘の負傷によるものよりも、不潔な環境により生じた感染症のために亡くなった兵士のほうがはるかに多かったことを統計学的に証明し、野戦病院の、ひいては病院建築全般の環境改善を提言しました。
彼女は国内だけでなくヨーロッパの多くの病院を訪問して現状を観察し、①患者の物理的療養環境(日照、換気、暖房、騒音など)、②入院生活(余暇時間)、③院内感染防止対策、④院内物流の効率化などへ配慮した、理想的な病院建築(病棟)を提唱しました。このナイチンゲール病院(病棟)は19世紀後半にヨーロッパ各国に広まり、一世を風靡しました。これが彼女が「世界初の建築家」と言われるゆえんでしょう。
→ ナイチンゲール病棟についてはこちらの記事をご覧ください。
■看護領域から他分野への越境 ②統計学
前述のように、ナイチンゲールは、クリミアでの兵士の死亡原因は、戦闘の負傷によるものよりも、不潔な環境により生じた感染症によるもののほうが多かったことを統計学的に証明しました。
子どものころから数学に興味があったナイチンゲールは、当時ベストセラーだった統計学者アドルフ・ケトレの著書『人間について』を読み、いろいろなデータをケトレが広めた統計学の方法で分析したりしており、もともと統計学の素地がありました。
クリミアから帰国後、ナイチンゲールはヴィクトリア女王に陸軍の衛生状態についての調査委員会の設置を依頼します。「ヴィクトリア女王の勅撰委員会報告書」の中で彼女は、陸軍における衛生状態の欠如について、統計学を駆使した図表を用いて客観的に提示し、陸軍改革や国の公衆衛生改革を要求しました。とりわけ「Bat’s Wing(こうもりの翼)」と「Rose」と呼ばれる2つのカラーの円グラフは、人々の目を引きつけ、その心を動かしました。
→ カラーの円グラフについてはこちらの記事をご覧ください。
統計学を政策に活用する彼女の手法は高く評価され、後に王立統計学会のフェローや米国統計学会の名誉会員にも推挙されたほどです。「統計学者」ナイチンゲールはこうして誕生したのでした。
■「越境」が看護にもたらしたもの
病院が望ましい療養環境になったことで早期退院が進み、統計をヴィジュアライズ化して効果的に提示したことで、人々の生活環境は改善され、健康向上に寄与しました。ナイチンゲールのすごいところは、看護から「越境」して得たことをきちんと看護に「還元」している点ではないでしょうか。
■Nursing Nowキャンペーンとナイチンゲール
ナイチンゲール生誕200年の2020年から、看護職への関心を深め、地位を向上することを目的にしたNursing Nowキャンペーンが全世界で展開されています。本キャンペーンの主旨「看護職が持つ可能性を最大限に発揮し、看護職が健康課題への取り組みの中心に立ち、人々の健康向上に貢献する」は、まさにナイチンゲールが行ってきたことです。
ナイチンゲールは看護を「越境」することで、看護職が持つさまざまな可能性を示し、最大限に発揮したといえるでしょう。
ナイチンゲール生誕200年記念出版
「ナイチンゲールの越境」シリーズ
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〈クリミアの天使〉という一般的なイメージを「越境」した
ナイチンゲールの多面性・多様性と人間的魅力を再発見!
[01 建築]
ナイチンゲール病棟は
なぜ日本で流行らなかったのか
長澤 泰、西村かおる、
芳賀佐和子、辻野純徳、
尹 世遠 著
●四六判・148頁
●定価1760円
(本体1600円+税10%)
ISBN 978-4-8180-2279-9
ナイチンゲール病棟が病院建築に与えた影響を考察した、看護を「越境」した独創的な「看護×建築」本!
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[02感染症]
ナイチンゲールは
なぜ「換気」にこだわったのか
岩田健太郎、徳永 哲、
平尾真智子、丸山健夫、
今岡浩一、岩田恵里子、
百島祐貴 著
●四六判・104頁
●定価1430円
(本体1300円+税10%)
ISBN 978-4-8180-2309-3
「新鮮な空気」がいかに健康保持に大切かを繰り返し述べたナイチンゲールの先見性がコロナ禍の今、生かされる!
●ウェブサイト:教養と看護「ナイチンゲールの越境」
幼少より語学や歴史、思想、数学、音楽、政治、経済など幅広い教養に触れたナイチンゲールが残した業績を振り返り、彼女が生きた時代と現代の論点とを交差させながら、さまざまな分野の話題を紹介しています。
https://jnapcdc.com/LA/-feature-2017-.html
看護2021年5月号より