文:野地 有子(千葉大学大学院看護学研究科教授)
「看護研究は何のためにするの?」と聞かれて、あなたならどのように答えますか。「実際にはどのように取り組んだらいいの?」と立ち止まってしまうことはありませんか。本書は、質的研究方法の世界的第一人者のジャニス・M. モース氏とペギー・アン・フィールド氏による、質的研究を実際に始めるためのガイドです。具体例が豊富で、質的研究方法の“経験”を味わうことができる本書について、翻訳者である野地有子氏にご紹介いただきました。
ジャニス・M. モース先生の同僚であったアルバータ大学(カナダ)のバレンタイン先生を通して、本書の翻訳の機会をいただきました。本書の韓国語訳も出版されており、日本語訳の出版を、モース先生が希望されていました。原書は、1995年に出版されていますので、モース先生らの質的研究に関する複数のテキストの中では、古典的な1冊に位置づけられます。モース先生は現在も継続して、精力的に質的研究方法に関するテキストの編纂に尽力されています。
原書が書かれた当時は、北米でも、質的研究者らは肩身の狭い思いをしていたそうです。そして、質的研究と量的研究のディベートが盛んに行われ、少しずつ質的研究が市民権を得て発展してきた様子がうかがえます。現在では、質的研究と量的研究を組み合わせた研究も見られ、看護研究の推進には質的研究方法の必要性が高くなってきています。今や、看護研究において、質的に思考することは、ナース・サイエンティストの素養と言えましょう。
このようなタイミングで、本書を日本の読者の皆様に紹介できることは、偶然性の中の必然性を感じます。看護系大学大学院の修士研究・博士研究や、臨床における実践看護研究などにおいて、質的研究方法が多く用いられるようになってきています。このように質的研究方法が急速に発展すると、避けられない問題が生じることを、モース先生らは指摘しています。質的研究方法が急激に発展すると、一人で研究に取り組む場合に、どうやったら質的研究ができるか試行錯誤することになり、研究方法が混じり合う影響が見られます。
基礎となる前提を無視して、「最善と感じる」どんなことも「行う」ので、無意味な結果となるリスクが高くなります。この問題に対処すべく原書が刊行された歴史を振り返ると、現在の日本の看護研究の発展において本書を活用することは、モース先生らの積み上げてこられた努力に、私たちも参加することを意味します。
本書は、初めて質的研究方法を始める方でもスタートラインに立てるように、学部や大学院の研究法の授業の導入的教科書として使われることを念頭に書かれています。モース先生らの経験された豊富な具体例が、失敗談も含めて紹介されているので、質的研究方法の“経験”を味わうことができます。巻末の資料には、モース先生ご自身が書かれた、アメリカ国立衛生研究所(NIH)に提出し助成金を得た、安楽に関する質的看護研究計画書と、計画書へのクリティークの実際が紹介されていて参考になります。
本書の第一著者であるモース先生は、看護学博士と人類学博士の2つの博士号を同時に取得された経歴をお持ちです。現在は、母校のユタ大学看護学部(アメリカ)において教鞭を執られています。前任地のアルバータ大学では、質的研究法国際研究所を創立し、世界中から研究者を受け入れ、ワークショップや学会の開催に尽力されてきました。2011年に立ち上げた、Global Congress for Qualitative Health Research第1回大会に訳者も出席しましたが、最も強調されていたことは、質的研究を推進する次世代の育成についてでした。また、1つの質的研究成果で、看護実践の変革や看護の質の向上をリードすることは難しく、質的研究の集結によって、妥当性や強さを備えた看護研究が推進できるということでした。
ここで、“看護研究は何のためにするのか?”考えてみましょう。修士号・博士号を取得するため、研究費を獲得するため、患者さんによいケアを提供するため、いろいろあると思います。モース先生らは、本書の第1章「看護研究の目的」で、「研究は社会において必須で重要な役割を占めている」と述べています。その具体例を、近年注目されているIOMレポートから見てみましょう。
IOMレポートは、アメリカ科学アカデミーの医学研究所が看護の未来レポートとして2010年10月に発表し、世界の多くの国々に影響を与えています。アメリカは、未来の医療において無保険者を含み国民全体に質の高い安全なケアを提供するため、看護職の力を全面的に動員し、多職種の協働におけるメインプレーヤーとして看護職を位置づけました。これらを実現させた基盤にある原動力は、看護研究によるデータと言われています。IOMレポートでは、看護研究が医療の質の向上と看護職の政策提言能力の2点において必須であり、重要な役割を占めていることを表しています。
IOMレポートが看護職に医療の未来を託したように、モース先生も、看護職に質的研究方法の未来を託しているように思います。日本語版への序文で、「看護職を対象とした研究方法に関する本は、特別につくられる必要があり、そうすることで看護研究を最大限に開発できる」と述べ、その理由として1. 研究課題の特性(個人的で配慮が必要な問題を取り扱う)、2. 状況(臨床におけるプロセスと手続き、日課に関する知識)、3. 状況(病気の人からデータ収集するときの特別な知識と配慮)の3つを挙げています。そして、日本の看護職が質的研究方法を身に着け、概念的な説明に熟達することを応援し、日本の看護職による研究成果が広く普及し、影響を与え、臨床実践において活用されることを切望されています。
モース先生は、小柄で親しみやすい一方で、質的研究や看護について話される姿はいつもエネルギッシュです。今春お目にかかった際には、研究者マインドについて、次世代にどのように伝えていったらいいかと話されたことが印象的でした。本書を道しるべに、モース&フィールド先生と一緒に、質的研究方法の“経験”を体験するアドベンチャーに出かけていただけると嬉しく思います。
-「看護」2012年9月号「SPECIAL BOOK GUIDE」より –