SPECIAL BOOK GUIDE もう一人のクリミアの天使、メアリー・シーコール ~『ナイチンゲールはなぜ戦地クリミアに赴いたのか』より~

クリミア戦争で看護に従事した人物といえば
真っ先にナイチンゲールの名前が挙がりますが、
ナイチンゲール以外にも戦地で活躍した看護師は多くいました。
「黒人のナイチンゲール」と称されたメアリー・シーコールも
その一人です。戦後、ヴィクトリア女王やイギリス国民から
その貢献を讃えられながらも、およそ1世紀もの間、
彼女は忘れられた存在でした。ここでは、クリミアの激戦地で
イギリス兵のために孤軍奮闘し医療にあたった
シーコールの生涯を紹介します。

 

写真 メアリー・シーコールの彫像(マーティン・ジェニングズ作)

テムズ川を挟んで対岸の国会議事堂を見据えながら、向かい風にマントをたなびかせて歩いている姿。(CC0 1.0)

 

 

▶ 生い立ち

メアリー・シーコールは1805年、ジャマイカの首都キングストンに生まれました。父はジャマイカに駐留していたスコットランド兵で、母はキングストンで下宿屋を経営する傍ら、イギリス軍人やその家族の治療・介護にあたる医師でした。メアリーは幼いころから母の仕事ぶりを見よう見まねで学び、また下宿屋の客の軍医たちから西洋医学の知識を得ていました。

 

1836年、メアリーは商用でジャマイカに来ていたイギリス人エドウィン・シーコールと結婚しますが、わずか8年後に夫は亡くなってしまいます。その後、母の後を継ぎ、下宿屋を経営しながら医師・看護師として活動していました。1850年にジャマイカ全土でコレラが流行した際、下宿の滞在客のイギリス人医師からその治療法について多くの助言を受け、看護の経験を積みました。それが後のクリミア戦争での看護活動に大いに生きてくるのです。

 

▶ クリミア戦争でのシーコール

クリミア戦争が勃発すると、シーコールはキングストンで看護したイギリス兵たちが当地に派兵されたことを知り、政府公認のクリミア看護婦人団に加わろうと参加を申し出ます。しかし再三断られてしまい、肌の色ゆえの人種的偏見だと涙しました。しかし彼女はひるみませんでした。クリミア半島のバラクラヴァ近郊に親類と共同で宿舎および医薬品・雑貨販売店を開き、そこで医療活動を開始したのです。

 

バラクラヴァは、ナイチンゲールが拠点としていたスクタリの野戦病院とは黒海を挟んだ向かい側に位置し、戦争の最前線の地でした。戦地でのシーコールの活躍ぶりは、彼女が看護、治療、食事等の世話をした多くの兵士らの手紙や文書、新聞記事からうかがい知ることができます。彼女はあらゆる身分の人を治療し、癒やし、常に戦場近くに詰めて負傷兵の手当てをしました。また酒、料理等の代金を支払い能力のある将校たちから集めて、医療品その他の物資調達に充てる一方、貧しい兵士たちには必要な治療やケアを無償で行いました。彼女はいつも陽気で、傷病兵たちを息子のように慈しみ、兵士たちは家庭を思い出して、彼女を「母さん」と呼んでいました。

 

▶ クリミア戦争以降のシーコール

1856年に戦争が終結し、店に大量の売れ残りを抱えていたシーコールは破産状態になりました。彼女の貧窮が報道されると、彼女の戦地での貢献に感謝していた兵士や国民の声により、経済的支援の一助にとシーコール基金が立ち上がりました。またヴィクトリア女王もシーコールを「かけがえのない」人と考えており、女王の支援もあって、その後は安定した生活を送ることができました。

シーコールは脳卒中のため、1881年5月14日、ロンドンで亡くなりました。

 

▶ シーコールの再評価

シーコールの母国ジャマイカでは、クリミア戦争100周年の1954年、看護協会本部の建物を「シーコール・ハウス」と名づけ、人種的差別に屈せずに闘った彼女を国民的英雄と評しました。

 

イギリスでも100周忌となる1981年にメアリー・シーコール協会が結成され、関連の出版物刊行、メディア報道、展示会開催等により彼女は注目を浴びるようになりました。2004年には、史上最も偉大なイギリス黒人に選ばれています。

 

これを受けてイギリス看護協会は「メアリー・シーコール記念像アピール(現 メアリー・シーコール・トラスト)」を立ち上げ、2016年、シーコールを顕彰する大きな彫像が、ナイチンゲールが看護学校を創設した場所であるロンドンのセント・トーマス病院敷地内に建立されました(写真)。台座の後方には、「イギリスが彼女を忘れることはないと信じている」という「タイムズ」紙の従軍記者、ハワード・ラッセルの言葉が刻まれています。

 

背後の円盤はクリミア戦争で実際に破壊された岩盤の表面を型取っており、それは彼女が行き来した戦場、地球であり、看護婦人団への志願を断られたときに彼女が感じた「石の壁」でもある。照明が点くとシーコールの影が映るこの円盤はまた、欠陥、人間性、大量死をも表す──とシーコール像の作者マーティン・ジェニングズは語っています。

 2022年北京五輪の開会式のテーマは「一つの世界、一つの家族」(One World, One Family)でした。社会のグローバル化が進んでいる昨今ですが、多民族社会の中ではいまだ差別・排除されているマイノリティ・グループが存在しており、格差も顕在化しています。「One World, One Family」を達成するための道のりはまだまだ遠いように思われますが、メアリー・シーコールの生き方がひょっとしたらその一助になるのかもしれません。

 

* 本稿は『ナイチンゲールはなぜ戦地クリミアに赴いたのか』の1稿、「もう一人のクリミアの天使──メアリー・シーコール」(大田垣裕子 著)を一部抜粋し、作成したものである。

 

 

ナイチンゲールの越境6・戦争

ナイチンゲールはなぜ

戦地クリミアに赴いたのか

 

玉井史絵、石川一洋、森田由利子、杉浦裕子、丸山健夫、小宮彩加、中島俊郎、大田垣裕子、金沢美知子 著

 

A5判184ページ
●定価2,200
(本体2,000円+税10%)
ISBN 978-4-8180-2339-1
日本看護協会出版会
(TEL:0436-23-3271)

 

ナイチンゲールは悲惨極まりない状況の戦地の野戦病院で、典型的な官僚組織の陸軍を相手に、状況改善に邁進した。それまで見捨てられていた負傷兵にとって、ナイチンゲールが天使に思えたのは不思議ではない。しかし、多くの兵士を死なせてしまったことに深い自責の念を抱いていた彼女は、英雄視されることに複雑な思いだったようだ。「ナイチンゲールとクリミア戦争」について、当時の政治・社会状況など様々な側面に焦点を当てて考察した一冊。

 

 

看護2022年4月号より

 

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