文と写真:錢 淑君
人口2千3百万、面積は九州に近い台湾は、戦後1952~1980年に経済発展の第一段階を迎え、年間平均9.21%の成長率を成し遂げました。1960年代初頭生まれの私が今でも鮮明に覚えているのは、共働きの両親は土日も出勤していたことです。休めるのは中国文化の中で大切にされている「三節」すなわちお正月と、旧暦5月5日の端午の節および中秋の節のみでした。
そんな家庭の4人姉弟の長女として、私は小学校2年生の頃から、親が帰宅するまでに夕食の準備や風呂のお湯沸かしの役割をしていました。薪を割って燃料として使っていた頃は、ご飯を炊くことを忘れることはありませんでしたが、やがて炊飯器を使う時代になると遊びに夢中になってついスイッチを入れることを忘れてしまい、帰ってきた親に散々叱られました。
当時の台湾では、同年代で4人兄弟は普通でしたが、1984年に千葉大学の看護学部に入学すると、同級生の日本人は2人兄弟か1人子が普通で驚いたものです。しかし現在、台湾の出生率はすでに日本より低く1.0を下回った状態で、しかも産婦は高齢出産者か東南アジアから来た嫁が大きな割合を占めています。
中学校に入学したばかりで急に引っ越しすることになり、転校した先は市中の学校でしたが、後に市内で2番目に成績のよい学校だとわかりました。転校生はとりあえず成績が中間の「ゆっくりコース」に入れられたのですが、半年後に進学コースのクラスに変えると担任から告げられ、びっくりしました。嬉しい気持ちよりも仲良くなった友だちとの別れが寂しかったのを覚えています。
進学コースでは毎年IQテストも行われていて、中間・期末テストの成績と合わせて個人の努力指数が計算され、掲示板で公表されていました。先生にはいつも「君はIQテストの点数は高いが成績の点数はあまりよくない。つまり努力が足りない」と言われていましたが、高校は何とか無事に偏差値一番高い地元の女子校に入ることができました。
しかし今思えば、中学校の「ゆっくりコース」はあまり勉強のことを考えず、皆と毎日楽しく遊べたことがとてもよかった。それと、当時の台湾では、思春期の男女共学を“回避”していて、小学校の5年生から男女は別のクラスになっていました。
台湾の戒厳令解除は1987年。戦争に備え高校教育では“軍訓”という軍事教育が必修科目でした。女子はさらに“護理”(看護)という科目の学習がありました。1年生から銃についての解説があり、木製の模造銃を使った射撃練習も行われました。2年生になると軍事基地に行って軍人の指導の下で本物の銃の実射を行いました。練習用なので一番古くて重い武器を使うため、撃った反動で鎖骨を骨折する学生も時々いたそうです。
私が通った台中女子高等学校は進学校のためテストが多く、評価も厳しくて一学年の一割ぐらいが留年します。英語教科書は一学期で7冊も使われ、入学前の噂では英語辞書を丸ごと一冊暗記させられると言われるほどでした。
当時の台湾には、沖縄のように米軍が駐在していました。そのため街を歩くとアメリカ兵とその家族を見かけることがごく普通でしたが、高校であんなに英語を勉強したのに道端でアメリカ人に出会っても英語は聞き取れないし、話しもできなかったので、学校での勉強はおかしいと思っていました。
2年生の時、週に1度自分のお小遣いを使って、近所のアメリカ人牧師の中学生の娘から英会話を教えてもらいました。ある日、授業の後でその子が「李登輝台北市長から父に相談の電話があった」と教えてくれたのですが、当時は李登輝という人物の重さを全く知らず「ふうん」と軽く受け止めていたのを思い出します。そんな英会話勉強を通じて牧師の家と親しくなることで、私はアメリカ人の生活の様子を初めて知ることになりました。
そしてちょうど、当時人気だったテレビドラマが、台湾人の既婚男性がアメリカに留学してアメリカ人女性と出会い、台湾に残された妻子は苦しい生活を送った挙句、妻は夫から離婚届けを受け取るという悲惨な内容でした。それを見た私は「これからは海外への留学の時代だな」と感じとり(笑)、チャンスがあったら自分も海外へ出たいという夢を高校2年生の時から見ていたのでした。それが日本への留学のきっかけでした。
ちぇん・しゅちゅん
台湾出身。千葉大学准教授。1984年に同大学看護学部に入学、90年より国立成功大学講師、2004年博士号取得後、2004~2012年3月まで、宮崎県立看護大学准教授。現在、千葉大学看護学部准教授。