「韓国で看護師をしよう」

文と写真:吉野淑代
 

ソウルの中心部、鐘路にある公園。独立運動の発祥の地。1919年3月1日に4000~5000人の学生が集まり、次第に全国に広がっていったのですが、その時、独立万歳を叫びながら、この無数の大極旗(韓国の国旗)が振られたのでした。


 
韓国に住み始めてから16年が経ちました。来てすぐの頃は「こんな国にはとても住めない」と、よく泣いて日本に帰ることばかり考えていました。でも今は日本に帰ると逆に外国に来たような感じがするくらい、韓国に慣れてしまったかもしれません。
 
長くこちらで暮らす中で、今後はもう看護師として仕事をすることはないだろうと思っていましたが、2000年を過ぎた頃、「韓国で看護師をしよう」と、心の中で何かが甦って再び看護師になりました。韓国に来た当初、そんなことは夢にも思いませんでしたが……。
 

私の夫は韓国人です。夫は私が看護師になることに大反対でした。あまりに強く抵抗するので、勉強していた試験用の問題集を全部捨てて諦めた時もありました。それでも結局夢を捨てきれず、少しずつまた問題集を買ってきては読み、時間を見つけては勉強する日々を過ごしました。夫はそんな私を見てあきれたのか、だんだん静かになっていきました。
 
ある日、義母が倒れたという知らせを受け、全羅南道の田舎を訪れて看病に当たりました。そこは日本からの郵便が届くと「こんなところに日本人が住んでいるのか?」と、郵便局から確認の電話が1日2回も来るくらいの田舎です。そこでの暮らしは、看病をしながら親戚の農作業を手伝い、朝と夜は勉強する毎日でした。大変でしたが充実していました。
 
2年後「免許は取るけど、働かないからいいじゃん」などと夫に言いながら、今年こそ受験するぞと意気込んで、書類の準備のため日本に帰国している間に義母が入院しました。義母は癌でした。日本にいる私がそのことを知ると韓国へ帰って来なくなるのでは……と思ったのか、夫は義母が入院したことを私に秘密にしていました。
 
韓国に着いて家に帰る車の中で、夫は「オンマ(母)が入院したけど、どうする?」と打ち明けました。どうするもこうするも、それは「入院している義母の横で君が看病をしろ」という意味です。私は長男の嫁なので避けることはできません。しかも韓国の病院では、看護師が患者の身の回りの世話をするのではなく、家族や看病人など付添いがすることになっています。当然、その役割は私がすることになります。
 
結局、その年は試験を受けられる見込みがなくなりました。私は泣きながらどれほど夫に文句を言ったかしれません。
 
でも、ソウルの大学病院で義母を看病しながら、いろいろなことを学びました。家族の絆が強い韓国では昔から身内で患者に付き添います。また、付き添いという職業があって、看病人、療養保護士と呼ばれる人が身の回りの世話をします。患者の移動やおむつ交換などは勿論、吸引などを上手にできる人もいます。
 
ナースコールがあまり鳴らないことや、患者の話をじっくり聞いてあげられることなどが日本と違うなあと感じました。ただ私の日本人的な考え方としては、家族への負担が大きいことや、入院費の他に看病人にも発生する支払いが煩わしく思えました。一方、看護師は清拭や洗髪などをしないので、事務的な業務や点滴・注射などの医療処置に時間を費やせるという印象も受けました。
 
例えば、浣腸をする場合に薬液は看護師が入れ、後始末は家族がするなどの連携プレーを見ることもありました。看病人だけでなく、よく考えてみると食事の配膳下膳や病室のちょっとした掃除、物品管理や補充も担当の人がするし、死後の処置も専門の業者がすべて行うのを見て、日本との違いを感じました。
 
義母が他界してから国家試験まで、十分に時間はありませんでした。私が外国人だからといって、試験問題に日本語のふりがなや英語の併記はありません。幸い一度で受かりましたが、韓国の看護師になるまで本当に遠回りした気がします。でもいい経験でした。
 
夫は、私が看護師として働くことに何も言わなくなりました。韓国の雇用が不安定なこともあり、むしろ私が安定した職業に就くことを望むようになりました。でも正直なところ、日本で働いていた頃の給料と比べると、苦労して得た資格の割に韓国の看護師のそれは相当少なく感じます。円高の影響もあるのですが給料明細を見ると力が抜けてしまいます。
 
それでも国際化が進む韓国で、日本人が韓国で医療を受ける際に手助けができたり、韓国で看護師の国家試験を受けようとする日本人に助言ができたり、日本の文化や習慣などについて話す機会を得たりと、いろいろな面でこの仕事にやりがいを感じながら自分を支えています。
 
また、韓国人の看護部長が「日本人は我慢強い」とか「すぐ辞めない」「ケアがていねいだ」「従順」などとよく評価してくださっただけでなく「50人ぐらい日本人の看護師が欲しい」などと言われたこともありました。それは日本人としてありがたい話でした。
 
我慢強いという言葉を、何度か言われたことがあるのですが、私にとって義母の看病が、韓国で看護師をしていくための訓練であり、そのワンステップとしていい経験になりました。これからもいろいろな経験を積みながら、看護師として成長していこうと思っています。

 


よしの・しずよ
東京都出身、96年よりソウル市で暮らす。日本、韓国の看護師免許取得。現在、産婦人科病棟勤務のほか、医療通訳士としても活躍。



コラム「海外でくらす、はたらく。」(INR 157号)

“異邦人”看護師7人の日々を、誌面とWebで紹介