INR臨増号『看護における社会学的アプローチと実践』刊行!

 編集協力者の1人、細田満和子氏は弊社の書籍『「チーム医療」の理念と現実』(『「チーム医療」とは何か』に改題・改訂 http://goo.gl/dmqZd )の著者であり、 医療社会学者として、公共的な視点で医療専門職の協業や患者の医療参画のあり方を追求されています。

 

日本では公衆衛生と訳されるパブリックヘルスという言葉について、細田氏は自身の米国での研究活動や市民生活の経験を経て「みんなの健康」という社会的実践につながるキーワードで再定義されています。『パブリックヘルス 市民が変える医療社会』 http://goo.gl/T5pfw

 

細田氏はポリオワクチン問題や慢性疲労症候群の社会的理解の普及など医療を取り巻く問題に積極的に関わり、当事者と医療従事者間の見えにくい分断をいかに埋めていくか…いや、その関係性をどう活性化させるかを、自身もそこに直に関わる一専門職として役割を模索されています。

 

また、研究者としての目線では、“社会学は常に実学ではないという負い目があ” りつつ、“対象との距離がいかなるものかを自覚した上で距離を縮めることで、現場のリアリティに肉薄した意味ある研究が可能になる”と本誌で述べておられます(p.9)。

 

では実践者と研究職が重なる看護の世界では、こういった自省は無縁なことなのでしょうか。もう1人の編集協力者である吉田澄恵氏(女子医大看護学部)は、細田氏ら多くの医療社会学者との交流の中で受けた刺激をもとに、看護学という学問分野を改めて捉え直します(p.14〜)。

 

“社会学者から問われることの一つに、看護学の文献に「対象の理解」という語がみられるが、看護師は人を「対象」とみなすのか、それは本当にふさわしいのかと。…「対象」とは「看護の対象」なのか「看護学研究の対象」なのか「看護実践の対象」なのか何ら区別がない”(p.17)

 

“看護師にとって、患者を「看護の対象」と表現するのは、まったくそぐわないと思う。我々は、患者を「対象」などと自分と切り離した存在として認識しないだろう。「相手」であり「その人」であり、看護師として存在する自分と濃厚に影響し合う関係にあると思う”(p.17)

 

ここで吉田氏は注釈を用い、象徴的相互作用論や社会構成主義といった言葉を援用されていますが、ともかく改めて、看護という仕事が一方的に患者対し提供されるのでなく双方向的な営みであることを確かめられます。そしてこのことがまた、先に述べた「みんなの健康」と呼応してくるです。

 

社会の中で高度に専門化し、多様化し、複雑化する医療に合わせて変化していく看護のあり方を、働く個人としてこれからどのようなスタンスで考えていけばいいのか。また震災以後、看護職として自分がすべきことは何なのか、それを考えるために依って立つ足場はどこにあるのか…。

 

三井さよ氏によれば、社会学では最初に問いを多様に立てて見ることを学ぶそうです。看護ならば例えば、本当にその人は困っているのか(単なるパターナリズムでは?)、困っているとしてなぜ支える必要があるのか、といった根本的な問いもそこに含まれることになります。(p.119)

 

効率やスピードと同時に高い質を求められる差し迫った現場や、細分化され孤立しかねない専門性や学問領域に身をおく中で、改めて看護とは何かを見つめ直す時、常にものごとを俯瞰的に捉えようとする社会学的なアプローチというものが、ある新鮮な視点を与えてくれるのは確かなようです。

 

しかし一方で、三井氏は次のようにも述べています。“看護研究者は「ではどうするか」を絶対に手放しません…議論をしていても、質問が常にそこに向かうのです” だけど社会学者はその視点を見落とすこともあると。看護学と医療社会学はそんなふうに刺激しあってもいるんですね。

 

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さて、このほか本誌Twitterアカウント(@INRnippon)でも本特集号の紹介ツイートをつぶやいてますのでぜひご覧ください。

 

 

『看護における社会学的アプローチと実践』目次とご購入