「ものづくりから、 ひとづくりへ」

文と写真:錢 淑君

(INR日本版 2012年夏号, p.105に掲載)

 

chen

左から2人目が松元先生で、その右が金田先生。

海外へ留学したいと、高2の時から夢を見ていたのですが、実際に東京にきて日本語学校に入ったのは1983年の4月でした。

 

1983〜1984年は中曽根首相の時代であり、対外貿易は大黒字で経済成長が進んでいたおかげで、アルバイトが見つかりやすく、奨学金の申請も現在より厳しい状況ではありませんでした。母親が国立がんセンター(当時)にお世話になったことがあり、日本で看護を勉強するとよいとの勧めもあったので、1年後、千葉大学の看護学部へ進むことに決めました。

 

今でもはっきり覚えているは、入学の面接担当教授が見藤隆子学部長、解剖生理学の石川稔生教授、そして小児看護学の吉武香代子教授でした。入試を受けるまで1年間ぐらいしか日本語を学習していなかったので、質問がうまく理解できていない私の表情を見て、アメリカ留学経験のある吉武教授がわかりやすい日本語でもう一度聞いてくださいました。

 
続きを読む…

「ただ待つばかりの人たちではないのだ」

文:吉野淑代

(INR日本版 2012年春号, p.108に掲載)

 

1996年5月、日本での看護師生活にピリオドを打ち、韓国へ来て15年の歳月が過ぎました。

 

こちらの生活の中でいろいろな出来事がありましたが、とくに猛勉強の末に韓国の看護師免許を取り、韓国の病院で働き始めたことは自分にとって大きな第一歩でした。今は看護師の資格に加え、韓国内で医療通訳士、病院コーディネーターなどの資格を活かしながら、産婦人科病棟の看護師として勤務しています。

 

日々の暮らしの中で、この国の文化や習慣、言葉などに数多く出会い、さまざまな面で日韓両国の違いを感じてきました。

 

看護師としては臨床面の他、政策や制度についても大きな違いを知りましたが、なかでも2011年4月に、看護教育4年制一元化のための高等教育法改正案が国会本会議で通過したことは、韓国看護界の歴史的な大事件でした。この2012年からは、看護専門大学(3年制)33校が、順次3年制から4年制の大学に移行していく予定です。

 

続きを読む…

「オールドタウンで想う、これからの日本」

文と写真:木下澄代

(INR日本版 2012年春号, p.109に掲載)

 

windmill

勤務先の高次性機能障害者リハビリセンターへ通う際に横切る農地にも、風力発電用の風車がある。

 

デンマークではコペンハーゲンに次ぐ第2番目に大きな町、オーフス市にあるDen gamel by(英語ではOld town)に友人と出かけました。

 

ここには国内各地の歴史的に重要な建物が移築され、保存・公開されています。建物は同時代の生活を紹介する生きた博物館でもあり、季節ごとに建物内の展示内容が変わります。例えばクリスマスには市長の住んでいた建物が当時の様相を再現します。リビングルームに飾られるクリスマスツリーは天井まで届く高さがあり、毎年変化する装飾を見ることが市民の伝統にもなっています。

 

12月の日は短く、午後3時を過ぎるともう夕闇が降り始めて薄暗くなります。それぞれの建物ごとに異なる展示をすべて見る時間はありません。常設展示は差し置いて、この時期の特別展示を選んで周ることにしました。

 

続きを読む…

「50人の親戚たちが暮らす村の生活」

文と写真:坪田トーレナース育子

 

(INR日本版 2012年春号, p.110に掲載)

 

house

オランダの古い農家ぐらし。隣近所は賑やかな親戚ばかりで日々退屈している暇もない。

mag

親戚縁者に配布される「家族雑誌」

オランダの南部にある人口3,000人の小さな村で、夫と2人の息子とともに、古い農家で暮らしています。左隣は義理兄一家、お向かいはいとこ夫婦、その他村内だけで、ざっと50人の夫の親戚に囲まれていて、2年に1回は村外の家族も含めた同窓会が開かれます。それに来られない人のために家族雑誌が発行されたりして、毎日退屈する暇がありません。

 

私が来蘭したのは1997年の3月。EUになる前でオランダの通貨がまだギルダーの時代です。SkypeもE-mailもなく、テレビすら契約した衛星放送しか見られない時代で、当時はずいぶんホームシックにも悩まされました。日本では、看護師・助産師として産婦人科との混合病棟や開業産婦人科で働いていたので、その経験をこちらでも活かそうと思っていましたが、現実はそう甘くはありませんでした。

 

続きを読む…

「人生の転機が訪れる たびに開いてきた、 思い出の “箱”」

文と写真:森 淑江

(INR日本版 2012年春号, p.111掲載)

 

mori

ザンビアの首都から400㎞離れたカロモ郡のクリニックで活動する公衆衛生の隊員(右端)から話を聞く筆者(左端)。

 

1992年から2年間、中米のホンジュラスで看護教育に関する仕事をしたことをきっかけに、看護分野の国際協力に取り組み始めました。今では国際看護学の分野を確立すべく奮闘しています。

 

群馬大学で国際看護学の教育と研究を行いつつ、日本がODA(政府開発援助)として国際協力を行う際の実施機関、独立行政法人国際協力機構(JICA)青年海外協力隊事務局技術顧問(長い!)を務めています。

 

1965年に青年海外協力隊が創設されて以来、86の開発途上国に3万6,000人以上のボランティアが青年海外協力隊員として派遣されてきました。このうち2,438人が看護職(保健師・助産師・看護師)で、保健衛生部門の42%を占めており、2番目に多い養護隊員の558人を圧倒的に引き離す数です。

 

続きを読む…