文と写真:坪田トーレナース育子
その昔、ニューヨークがニューアムステルダムと呼ばれていた頃。もしオランダ人が、あの土地をアメリカ人に二束三文で売らなければ、英語の代わりにオランダ語が世界の共通語になっていたかもしれないのに。せめて鎖国を解いた時代に入り込んできたオランダの文化が日本の生活に残ってくれていたら、私はオランダ語習得にこんなに苦労することなかったかもしれない……。
そんな例え話を勝手につくって嘆いていた来蘭当時。オランダ人の夫に出会うまではオランダ語の存在さえ知らなかった私が、気がつけばオランダにいて、オランダ語によるオランダ語の授業を受けているのですから、人生とはわからないものです。
肩を並べるクラスメイトの国籍は10カ国以上。学校全体で41カ国の人が通っていました。そこには国際カップルから、亡命してきた人たちまで幅広かったのを記憶しています。
授業でわからない単語を引く時に使うのはオランダ語の辞書。その内容がわからずにまた辞書を引くという繰り返し。蘭和辞典はあっても和蘭辞典は存在せず、日本語―英語―オランダ語と辞書を最低2回引く始末。発音は発音で二重母音(OEやUU UIなど)に苦労し、「住宅補助」と言ったつもりが「売春補助」になっていたり! 文法・聞き取り・慣用句にも大いに苦しんでいました。
オランダ語力ゼロで始まったオランダ生活ですが、子育てに振り回されながらも、たくさんの間違いを犯しながら、私なりにオランダ語が少しずつ使えるようになりました。
しかし、そんな私にも、ひそかな夢があったのです。それは、いつかオランダの看護の世界で働くこと! でもそれにはオランダ政府が指定するオランダ語の国家試験に受からねばなりません。レベル1と2があって看護学校へ編入する条件として2が必要です。下手な鉄砲数打ちゃ当たる精神で、いきなりレベル2を狙うと学校の先生に言うと、「それは、ミッション・インポッシブルよ!」と呆れられました。結局、読み書きは1回目で合格しましたが、会話をパスするのに5年がかりとなりました。
オランダ語を学びながら、そのかたわら外国人の医療関係者がオランダで働けるようになるためのプロジェクトに参加しました。医療現場で使う言葉や言い回しを授業で習い、病院実習では看護の現場の文化背景やタブー、患者さんとのやり取りなどを経験しましたが、そこで面白いことに気が付きました。現場で使っている言葉の中に、聞き覚えのある言葉がよく出てくるのです。例えば、白血病(ロウケミ)、ギネ(ギネコローグ)、カルテ、カテーテルなど。
他にも、オランダ語の単語を日本がそのまま訳して使っている言葉もたくさんあることに気が付きました。例えば十二指腸(Twaalf Vinger Darm:十二、指、腸)。盲腸も(Blind darm:盲目、腸)です。すべてがあてはまるわけではありませんが、わからない時はまず日本語で考え、一つずつオランダ語に直すことで、答えが導き出されることが多々あったのです。思わず「江戸時代の蘭学者様、解体新書様ありがとうございます!」と感謝したくなりました。
しかし、オランダの医療現場で使う単語はラテン語も多く、医師や看護師は英語はもちろん、ドイツ語も話せる人が多いので、外国人患者にもスムーズに対応していました。大きな町に行くほど、外国人の医療関係者をよく見かけます。高等専門教育の一部では、使う教科書はすべて英語、授業はオランダ語で行われていたりもするそうです。
15年前、思い返せば日本に住む選択肢もなかったわけではありませんが。「郷に入らば俺様に従え」的な夫に、漢字を教え日本文化になじんでもらうより、26しかないアルファベットを知ってる私がオランダ語を習ったほうが早いだろうし、看護師助産師免許があればどこでも働ける……なんて気軽な気持ちで決めたが運のつき。初めの5年は、後悔しなかった日はありません。でも辞書片手にオランダ人の友達とお茶を飲んだり、たくさんの恥をかきながら、少しずつ生きたオランダ語を学べて来た気がします。
今は採血の仕事をしているため、ルチーンワークの中に、血栓溶解剤の使用の有無を聞く場面があります。ここに二重母音の発音があり、やっぱり苦労しています。それでも、毎日たくさんのオランダ人と出会えるのが楽しいです。子どもたちや周りに間違いを指摘されながら、私のオランダ語習得は死ぬまで続きそうです。
つぼた・とーれなーす・やすこ
愛知県出身。1997年にオランダへ渡る。夫の親族が集まるコミュニティで子育てに奮闘しながら、外国人として看護師の仕事に就くため、さまざまな問題に直面中。