イントロ:哲学はキライですか?
哲学というものに対して、多くの看護職の方々が思っている印象は「難しい」ということに尽きるのではないでしょうか。
しかし、哲学にかかわっている人間にとって「難しい」というのは、まったく嬉しくない言葉です。
私が学生たちから集めた「哲学」への印象は次のようなものです。
「難しい」
「暗記が難しい 」
「堅苦しい」
「すごく考えている 」
「答えが出ない 」
「奥深い 」
「悶々と考えている 」
「悟りを開いている 」
「考えを押し付ける 」
「抽象的なもの 」
「よくわからない 」
「問いかけてくるもの 」
「神聖なもの 」
「人びとの思想 」
「人間の何か、道徳的なもの 」
「さまざまな学問の根底にあるもの 」
「できるだけ良い答えを目指そうとする向上心の気持ちを持って学ぶ学問 」
「昔のヨーロッパの思想 」
「凡人にはわからない非日常的な思想 」
「人間や自己とは何かを考えられる学問」
「答えが出ない問いにヒントをくれるもの 」
「人生の分かれ道の時に学ぶことが多そう 」
「文字がズラズラと並んでいて頭がこんがらがってしまうイメージ 」
「物事の真理を考えていそう 」
「〈生きることとはなにか〉〈なぜ勉強をするのか〉というようなとりとめのない・答えがない、または一つに定まらない事柄をさまざまな観点から考えたり、考え方を学ぶ学問」
などなど。
哲学に少しでも関心のある学生からは「何かすごいことを言っている」「この世の真理を知っている」「人生の悩みに答えてくれる」など、こちらの期待たっぷりの言葉が返ってくることもあり、なかには「看護実践に役立つかもしれない」と思ってくれる人もいます。
そんな向学心のある学生と出会うとつい嬉しくなり、サービス精神で相手の話を聞き始め、哲学との接点を伝えたくなるのですが、私はどうもそのやり方が下手なようで、しょっちゅう失敗してしまいます。相手がそれほど喜ばない。むしろ不満気な顔をしていることが度々あるのです。
これはショックです……。
あるとき思い切って、そんな学生の一人に聞いてみました。「もしかしたら、今、納得いっていないでしょ?……というか、ちょっと怒ってる?」
彼女の表情が「よくぞ聞いてくれた」というふうに変わります。「私はただ、自分の話を聞いてもらって “そうか、大変だね” と言ってほしいだけなんです。なのに、なんだか詰問された感じ……。哲学の話に無理やり当てはめられているようで嫌なんです」
そうなのです。彼女が語る患者や医者との間に起こった苦しみ・悲しみについて、私は「患者さんは最初に何て言ったの?」「あなたはどう受け止めたの?」といった質問で、根掘り葉掘り聞き出すようなやりとりをしていたのでした。
私はとしては、相手の話の内容を「正確に」つかもうとしたまでなのですが、冷静に考えれば不満に思った彼女の言いたいことは、おおよそ理解できます。
哲学においても、現象学を応用して場の声を「聞く」ことを第一とする、鷲田清一さんが広めた「臨床哲学」がそうであるように、こうした会話は概念や枠組みにまとめることが目的ではなく、何よりも共に感じようとすることが重要なのです。
また、本人も誰かに聞いてもらったとして、抱えている問題をそう簡単に解決できるとは思っていないのでしょう。確かに「聞くこと」で「痛み」をきれいになくすことはとても難しいですが、それでも、少しだけ緩和することはきっと可能です。
そして、どうか知っておいてほしいのは、私が犯した失敗も、決して自分勝手な絵空事を言いたかったのではなく、相手の心の葛藤や悩みを少しでも和らげたいと願って、できるだけ同じ問題を抱えようとして──共に感じようとして、あれこれ質問をしていたということです。
哲学は「現場」から離れて「上から目線」で何かを言いたいのでもなく、揚げ足をとりたいのでもありません。「現場」のただなかにあっては見えなくなっているものがきっとあって、それを探し出すためには、一度「現場」から離れてみることが必要なのです。たとえ「現場」と直接関係のない話になっているようでも、それは「現場」を考えるために行っていることなのです。
これを方法論的に提示したのが、哲学の創始者と言われる古代ギリシアのソクラテスであり、近代哲学の創始者のルネ・デカルトです。まず最初にソクラテスのことをお話しましょう。 >>「第1回」へ
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