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── 古今の

はなし

哲学者たちの

瀧本 往人

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第4回:[近代哲学3]

人間が営んできた文化や歴史へのまなざし~ヘーゲル

 

 

前回登場したカントは結局、人間の暮らしのなかの「疑わしい」もの、自然の世界とは異なるありようを、とりあえずまとめて「観念」や「理想」とみなし、しかもそのなかでも「道徳律」のようなはっきりとした「法則」(=法、掟)が物理的法則と同じように人間社会に存在している「はず」だから、私たちはそれに従って生きなければならない、とみなしました。

 

一方、カントよりも半世紀ほど後に生まれたヘーゲルは、青年時代に隣の国で起こったフランス革命を体験しているせいか、カントのような永遠不滅の考え方(理想)が抽象的に存在しているというよりも、これまでの歴史や文化、そして目の前で繰り広げられているものこそが「すべて」だと考えた哲学者であると言えます。

 

確かにカントの言うことも、わからないではありません。人間独特の能力や性格、つまりこの世に存在しないものにも名前をつけて考えたり、議論したりすることができる、という力はとても不思議であり大事なことです。

 

しかし困ったことに、カントの説明はどこまで行っても抽象的で、雲をつかむような話になってしまいます。多くの人は「だから?」と思ってしまいます。特に自分だけで考えるのではなく、大勢の人で共有したり議論したりする場合には、うまく進まなくなってしまうところがあります。

 

「もしも~だったら」とか「あのとき~すれば」といったような、どんな条件もつけずに、とにかく「嘘をつくな」とか「平和が一番」と言っても、実際にそういうことが問題になるときには、カントの道徳律はあまり役に立たないのです。特に、考える時間もなく今すぐに決めなければならないようなときには、カントの理想論は「そんなのきれいごとだ」といった形で簡単に吹き飛んでしまいます。

 

それに対してヘーゲルの考え方は、常に「現実」を出発点としているという点で、カントと対極にあります。さらには人間のあり方や社会のあり方についてはこれまでの「歴史」を根拠にしているので、説得力が違います。「現実的なものは理性的である」というヘーゲルの有名な言葉がありますが、これこそカントの「理想」論との違いがはっきりと打ち出されていると言えるでしょう。

 

繰り返しますが、ヘーゲルの哲学は一言でまとめると「現実」主義です。デカルトやカントは「思考する主体」「認識する主体」に何よりも目を向けました。つまり人間は「観念」を操る存在である、ということを出発点としたのです。一方ヘーゲルは、「欲望」をもとに「人間」を見つめ直しました。生々しい「人間」をとらえようとした、と言えるでしょう。

 

ただ「欲望」は人間だけが持っているものではなく動物にもあります。そのため、食欲のような本能的に生きるために不可欠な欲望を「動物的欲望」とみなして分けて考えます。そのうえで、他の動物にはない人間の不思議な欲望に目を向けます。

 

ヘーゲルの言葉で言うと「他者の欲望を欲望する」のが人間の欲望です。これは生命保存を直接目的にしておらず、他者を通じて生まれてくるものです。わかりやすく言ってしまうと、なぜか人は他人が欲しがるものを理由もなく欲望する、ということです。

 

「他者の欲望を欲望する」(人の欲しがるものを欲望する)……この発想はとてもすごいことだと思いませんか。だって、いくら人間が「主体」的とか言っても、結局は人に影響されてばかりいるということを言っているのですから。

 

もちろんデカルトのように「思う我」こそが揺るぎのないものだと宣言したことも、人間の観念の世界にも揺るぎない法則や絶対性があることを訴えたことも大変なところです。が、実はこうした「思う」や「観念」が「欲望」という見地から見直され、しかも「他者」に由来しているとしたことによって、ヘーゲルは人間が社会的存在であること、いやもっと強く、他者を通じて初めて「私」の存在を確かめることができる、ととらえたのです。

 

つまり、デカルトの「思う我」というのは、決して「デカルト」という個人や「我」が単独で「我在り」という帰結に至ったのではなく、必ず相手(の存在)が必要であるとともに、相手が自分を受け入れてくれなければ(承認してくれなければ)「私」というものは成立しない、というのがヘーゲルの考え方なのです。

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