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── 古今の

はなし

哲学者たちの

瀧本 往人

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第3回:[近代哲学2]

実体のないものに心を寄せる人間の不思議さ~カント

 

 

前回はデカルトの考えについてお話ししました。デカルトの「我思う、故に我在り」は多くの人々に影響を与え、その結果の一つとして医学のみならず自然科学全体が物理(自然)現象をしっかりと客観的にとらえ、数値化し、法則化することにつながりました。

 

デカルトの死後、100年ほど後に活躍したカントは、当初デカルトが示した道を素直に歩みます。若い頃のカントは地上で見える惑星の動きに惑わされず、計算に基づいて軌道の説明をするなど、自然哲学を中心に論文を発表していました。「宇宙人」の存在をめぐる当時の論争に対しても、冷静に「いるかもしれないし、いないかもしれない」という態度を選び、思い込みを自粛しています。

 

さらには当時のリスボン(ポルトガル)で、ヨーロッパではとても珍しい大地震と津波が起こった際、そのすさまじい被害を神による「天罰」とみなした哲学者たちを批判し、カントはあくまでも自然現象による災害であることを強調しました。

 

 

〈リスボン地震と津波に対するカントと他の哲学者との見解の違い〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなカントが50歳をすぎると「大転換」を果たします。これまで「自然界」というものがすべて「物理的法則」によって成り立っているということを前提に、個々の事象に注目してきたカントですが、デカルト(とその一派)が「疑わしい」と考えたものについて、もう一度見つめなおすことを始めるのです。

 

それは一体、どういうことでしょうか?

 

例を挙げましょう。デカルトから見れば、手術や投薬などの「キュア」の世界は基本的には「確からしい」もので、最終的には自然法則に基づくものでした。身体の変化の多くも自然科学的な法則に従うので、ある「不具合」(つまり病気や怪我)が生じても、それに必要な処置を施せば「正常」に戻るというものです。

 

しかし、こうしたデカルト的な考えでいくと、たとえば看護にかかわる「ケア」の世界は、数値化しにくく、客観的な説明もしにくいので「疑わしい」ものとして重要視されません。

 

もちろんみなさんは「ケア」の大切さをご存じですから、こうしたデカルトの考えには反発することでしょう。そう、カントもまた、こうした点に疑問を抱いたと言えます。

 

どうして人間は、他の動物とは少し違って、あれこれと思い悩むのでしょうか。どうして人間は、いろいろとややこしいことを考えるのでしょうか。どうして人間は、自然的欲求を充たすこと以外の欲求をもっているのでしょうか。カントは、こうした、人間と他の動物との違いを真剣に考えました。

 

人間も他の動物と同じように、この世に存在する生き物であり、自然現象の一部のはずです。ところがどうも、人間だけ少し違っています。厳密には他の動物たちのあいだにも決定的な違いがあるかもしれませんが、それはさておき、少なくとも人間からみると、自分たちが他の動物と違ったことをしているのではないか……。そういう疑問です。

 

カントはニュートンが見いだした自然界の「法則」というものを非常に重要視しました。この世に存在する「自然」はすべて例外なく物理的法則にしたがっているということ、これこそが、少なくとも自然界の「真理」であるとみなしました。

 

そして人間はこの法則に支配された世界をまず、感覚的に受け取ることができます。物を見たり、音を聞いたり、匂いがしたり、触ってみたり、感覚を通じて自然界の様子を探ることができます。こうした能力をカントは「感性」と呼びました。英語で言うとセンスで、現代風に言えばセンサーがデータをとっているようなさまです。

 

センサーはただ自然界で起こっていることに反応しそのデータをとっているだけではありません。そのデータを解析し、一定の「情報」に変えています。たとえばiPhoneには加速度などのセンサーが内蔵されており、歩いたり走ったりすると、加速度の変化に基づいて歩数や歩行距離、上った階数などに計算して表示させています。つまり、単に物理的な変化に反応しているだけでなく、それを人間が使えるデータに変換を行っています。

 

カントはこうした能力を「悟性」と呼びました。英語で言うとアンダスタンディングです。つまり、感性と悟性がペアとなって、いろいろな情報を収集し、生きるために活用しているのです。このペアはもちろん人間だけでなく、他の動物も同じようにもっていると考えられました。

 

しかし一方で人間だけがこうした法則とは「別の能力」をもっている、とカントは考えます。とてもわかりにくいのですが、カントはこれを「理性」と呼びました。英語で言うとリーズンです。一般的に「理性的」と言うと、本能的ではないこと、欲望のままにふるまわないこと、と考えられていますが、まさしくその通りのことをカントは理性という言葉にこめました。

 

人間の能力のうち、自然法則や自然的欲求とは違う何か、それを「理性」と考えたのです。

 

 

〈カントの認識図式〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……どうでしょうか? わかりにくいですね。たいていの人はここでギブアップです。でももう一度言います。私はカントのこの「理性」の説明こそ、看護における「ケア」の重要性を言い当てていると思います。ですので、ぜひとも皆さんにはついてきてほしいところです。続けましょう。

自然界のことをカントは「現象界」と呼び、それと区別して人間独特の能力が発揮されるところを「理想界」としました。現象界で主体が認識するものは認識対象であり根底には自然法則があります。一方理想界において把握されるものは「物自体」と呼ばれ、その根底には道徳律があるとしました。

ライプニッツの弟子にあたる人物が未曽有の地震と津波の被害を前に「天罰」だと述べたのに対して、ヴォルテールが異議を唱え、その後、カントは「自然災害」であることを強調、他方でルソーは都市災害であることを強調する。

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