第5回:[近代哲学のまとめ]

利己と利他のはざまで~近代哲学が問いかけるもの

 

 

さて、今回は個々の哲学者をとりあげるのではなく、近代哲学全体の風景から得られる興味深い対立的な考え方について、一緒に見ていきましょう。これはある意味、現代社会に生きる私たちの自己認識と他者認識の「原理」になっていると言えるものです。みなさんが、自分のことをどうとらえるのか、また、医者や患者やその家族、そして、その他のメディカルスタッフをどうとらえるのか、その基本原理のようなものを、これから考えようということです。

 

第2回で取り上げた近代哲学の出発点となるデカルトの「我思う、故に我在り」は、一般的には「近代的主体」をはっきりと示し出したものとして知られていますが、実は大きく分けると、二つの大きく異なる考え方を生み出した、という見方もできます。二つの考え、それは「独我論」と「相互承認論」です。

 

 

デカルトと独我論

 

デカルト自身は「我思う、故に我在り」を自分一人(=デカルト)だけではなく、「万人」にあてはまるものとして主張しました。つまりその意味では「相互承認論」を前提にしていたことになります。自分が発見した「原理」は、自分だけでなく、誰もがたどり着けるものだ、そうデカルトは考えたからです。

 

しかし、ちょっと考えてみてください。もともと「我思う」とデカルトは述べて、このような「懐疑」を行ったのですから、この場合、「懐疑」は「デカルトという我」が導き出した結論であって、それ以外の人に適応できるかどうか確証がない、ということにならないでしょうか。つまり、この「我」とは「デカルト」だけのことを指すとみなすことも、それなりの妥当性があるように思います。

 

そうすると、「我思う、故に我在り」という言葉は、他の人には関係なく、「デカルト」という歴史上ただ一人だけの話と考えたほうが、もっとしっくりくるように思うのです。つまりデカルトはあらゆることを疑い、そしてその結果、疑い得ない自分(=デカルト)というものを発見した、という具合にです。

 

しかしデカルトはこの言葉を、誰もが納得できるような普遍的な原理として発表したので「デカルト」だけの話にはなりませんでした。ですが、この「我思う、故に我在り」というものを真剣に考えると、「我」は「デカルト」以外が当てはまってはいけないように思われます。つまり「デカルトはすべてを疑ったのだから、他の人のことはどうなっているのかわからない」と言ったほうがスッキリするように思うのです。

 

あえて言えば、デカルトの行った懐疑は、この点において十分ではなかった、という言い方もできます。自分と他者のあいだに横たわる、決定的な違いに気づいたこと、それが「我思う、故に我在り」の本当の意味、と言えるのではないでしょうか。しかしデカルトは、こうした「私」の決定的なありようを強調することはなかったのです。

 

今これを書いている「私」(=瀧本往人)も、今この文章を読んでいる「あなた」も、この「我思う、故に我在り」の「我」に簡単にあてはめることができない、そういう考えが「独我論」です。「自分」と「他人」とは決定的に異なる存在の仕方をしているため、「我思う」はあくまでも「デカルト」ただ一人があてはまる、そう考えるのです。

 

 

いのちの固有性

 

これは実は、デカルトの考えに重ね合わせなくても納得できます。自分が死んだことを想像してみましょう。自分が死んだらもう、世界は「おしまい」という気持ちにならないでしょうか。世界は自分のいのちが尽きたとき、同時に終わってしまうのではないか、そういう気持ちです。いえ、病気や怪我で一人、病院のベッドに寝ている人もまた、そういう気持ちを抱くことが多いのではないでしょうか。他ならぬ自分の存在のことを、そのいのちのありようのことを、思い悩むのではないでしょうか。

 

もう少し柔らかく言えば、自分が死んだあとにも世界があり続ける(かもしれない)としても、自分は直接かかわることはできなくなります。そんな世界は、少なくとも自分にとっては存在せず、自分の消滅は世界の消滅でもあると考えるのはそれほど奇抜ではないでしょう。自分が生きているあいだ、つまり「我思う」という営みを続けているあいだだけ「世界」は「ある」のであって、その後はもう「世界」は(自分の)「世界」として存在はしていないのです。つまり「ある」という状態をやめているのです。

 

他人や家族など、同じように、確かに他の人間も「我思う」をしているかもしれません。けれども、その他人の「我思う」を人は確かめることができません。「自分がある」というのと同じような強い確信が持てるとは思えません。他方、自分の「我思う」は「絶対」です。他の何よりも「確か」なものです。それは基本的には疑うことはできません(少なくともそういう疑っている存在がある、ということは疑いえないでしょう)。ところが、自分以外の「我思う」は確かめるすべがありません。

 

こうした「独我論」の萌芽や発想は、今説明したようにデカルトに由来しつつ、後にカントやニーチェ、ウィトゲンシュタインなどに継承され(「独我論」は他者から継承されるものなのかどうかはさておき)、日本では特に、永井均さんが長年にわたって問いかけを行ってきました。場合によっては「利己主義」と混同されますが、一般的な意味でのエゴや「利己」ではなく、もっと本源的なもので、「利」というような側面にかぎらず、「存在」そのものとして「己」以外の「ある」と「己」の「ある」が決定的に異なるというのが「独我論」です。

 

「思考」が「存在」を保証する、言い換えれば、「言語」「観念」「心」「魂」が自律的な活動をしていると理解するとき、はじめてその個体は自らの「存在」(生きてあること)を自覚します。このことに絶対性、唯一性を認めるのが「独我論」なのです。

 

こうした「独我論」の悩みのタネは「他者」です。なんとなく「他者」も自分と同じように「思考」によって自分の「存在」を確かめることができるようにも思うのですが、「独我論」においては、「他者」というものは、あくまでも自分の「思考」が生み出した産物にすぎないと考えます。

 

もちろんこれは言い過ぎ、極端すぎる「話」かもしれません。なぜ「自分」だけが特別で「他人」は「偽者」であるかのようにわざわざ言わなければならないのか、独我論者は、これに対して、そうではない理由を「他人」に熱心に語ります。つまり、私たちの「いのち」は究極的には自分の「思考」の内部に宿っているように思っています。「自分」が「自分」であるためには、「自分」の「思考」のかたまりやその持続性がなくてはならず、それを支えているのが「いのち」というものであり、デカルトが言うように「思考」なしにはその「存在」をしっかりと確かめることができるものは見つかりにくいのではないでしょうか(もっと言えば「言葉」を使って「思考」していることによってはじめて私たちはこうした「独我論」を考えることができるとともに、自分自身がそれをふりかえったり、他人に伝えたりできるということです)。つまり、誰もが「独我論者」にならざるをえないのです。

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