(事例提供:西村 ユミ

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第3回「身体の志向性」

 

 

第2回「意識の志向性と態度」では、物事や人々がそのつど意味を帯びて「現象」するのは、意識が何らかの「態度」をとりつつ、その対象に向けて「志向性」を働かせ、意識に現われているものを、何らかの「意味」において捉えるからだ、ということを解説しました。そして、看護事例を考える上では、意識がとるさまざまな態度のなかでも、ごく普通の日常生活における「自然的態度」と、自然科学や医学を学ぶことによって身に着ける「自然科学的態度」との区別という視点が重要だということもお話ししました。

 

そのうえで西村先生に提示していただいた事例について考察しましたが、考察を展開していくうちに、意識の態度と志向性の変化には、他者との身体的関わりや身体的交流が深く関係している場合がありそうだということも見えてきました。そこで今回は、「身体の志向性」について解説したいと思います。

 

たとえば、次のような場面を想像してみてください。あなたが夜勤の看護を終えて自宅の自分の部屋に戻ると、飼い猫のココがすぐ近くのベッドのふかふかの布団の上で気持ちよさそうに寝ています。あなたは思わず駆け寄って手を伸ばし、ココを撫で、そしていつものように抱き上げます。ココは抱かれたまま、こちらをちらりと見ますが、また目を閉じます。ココの体の心地よい温かさが手や胸にじわっと伝わってきて、あなたは夜勤の疲れが一気に癒されていく……、そんな場面です。

 

さて、このときの一連の経験において、たとえば自分の部屋のベッドや布団、その上に寝ている猫、そしてその猫の体の暖かさ等々は、それぞれ「すぐ近くの」「ふかふかの」「気持ちよさそう」「心地よい」といった意味を帯びて現象し、経験されているわけですが、それでは、この意味を帯びた現象、意味経験はどのようにして生じ、どのような成り立ち方をしているのでしょうか。

 

前回「意識の志向性と態度」で解説したフッサールであれば、意識がごく日常の自然的態度をとりながら、それぞれの対象に向けて志向性を働かせて、ベッドの布団や猫、猫の体の温かさを「ふかふかの」「気持ちよさそう」「心地よい」などといった意味を帯びた仕方で捉えているのだ、と説明するかもしれません。

 

しかしこの例の場合、「すぐ近くの」ベッド、「ふかふかの」布団、「気持ちよさそう」な猫、「心地よい」猫の体の暖かさといった意味は、きわめて身体的で感覚的なものだとは言えないでしょうか。たとえば「すぐ近くの」という意味は、自分の身体を起点としなければ生じないはずですし、「心地よい」猫の体の温かさも、身体の感覚を通じてしか経験されない意味だと考えられるからです。

 

しかも、あなたが実際に夜勤で疲れて帰ってきて、これらを経験するとすれば、そのときには、意識の明確な志向性が前面に出てくることはおそらくありません。そこで起こっていることを正確に記述しようとすれば、意識がまずそれぞれの対象をそのような意味ではっきりと捉え、そのうえで手を伸ばし、撫で、抱き上げるといった身体的行為を行っているというよりは、むしろ意識がそれらの対象をはっきりと捉えるその手前で、すでにあなたの身体がそれぞれの対象に応答しつつ、そのように受け止めていると言ったほうが、そこで起こっている出来事に忠実です。

 

あなたは、自分の部屋に戻った途端、すぐ近くのふかふかのベッドの上で気持ちよさそうに寝ているココに、まさに「思わず」駆け寄って手を伸ばすのであり、はっきりとした意識の志向性の手前で、そのような意味を帯びた飼い猫の現われに促されて、あなたは駆け寄って手を伸ばし、撫で、抱き上げるという身体的行為を行っているのです。むしろ、この応答という行為の促しが、猫をそのような現われとして私たちに見て取らせているのです。

 

後期フッサールの発生的現象学に強い影響を受けながらも、独自の現象学を展開したメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)は、対象に向けてそれを何らかの意味で捉え、例えば「このベッドはふかふかだ」と思考し判断するような意識のはっきりとした志向性(作用志向性)の手前で、対象をそのような意味を帯びたものとして身体的に捉える、いわば前意識的な志向性(作動志向性)がつねにすでに働いていることを、見てとりました。後期フッサールも、はっきりとした意識の作用志向性の基礎に、世界を意味を帯びたものとして捉える潜在的で受動的な意識の志向性がつねにすでに働いていることを見てとっていましたが、メルロ=ポンティは、その志向性が、意識の志向性ではなく、まさに身体の志向性であると考えたのでした。

 

 

作動志向性と呼ばれるこの身体の志向性が、とりわけ意識されることなく、つねにすでに働いているからこそ、身の回りの世界が自分の身体を中心として、全体として意味を帯びて現われ、たとえば「すぐ近くの」ベッドとして経験されるのであり、自らの身体をつうじてベッドや猫の身体を志向するからこそ、ベッドの布団が「ふかふか」であることや、猫が「気持ちよさそう」に寝ていることが経験されるのです。

 

そして、この身体の志向性が「思わず駆け寄って手を伸ばし、撫で、抱き上げる」といった身体の運動・行為と密接に結びついた、対象に向かう「運動志向性」であることも忘れてはなりません。私たちは、身の回りの状況やその中の対象を意識の思考によって判断し認識するその手前で、身体を通じてつねにすでに身の回りの意味を帯びた状況に応じ、対象に向けて身体的な運動・行為を発動しているのだと言えるでしょう。

 

また、身体の志向性が「いつものように抱き上げる」といった、経験の積み重ねによる「習慣」に根ざして働くことにも注意が必要です。身体に馴染んだ「いつも」の仕方で抱き上げるからこそ、あなたはとくに意識せずともココを抱き上げることができるのだし、ココのほうも、逃げだすことなく、あなたの身体のいつもの運動志向性に応じて、そのまま抱き上げられてくれるのだと思います。

 

メルロ=ポンティは、とくにこの身体的な習慣が獲得される場面を、道具の習得と結びつけて論じています。車をうまく運転できるようになること、盲人が杖をうまく使えるようになること、タイプライターをうまく打てるようになることなどがその例ですが、これらの道具は、最初は馴染みのない「物」として意識されていたものの、その使用を習熟していくにつれて、身体に馴染み、いわば身体の一部となり、特に意識されることがなくなります。道具の使用が身体の習慣に組み込まれることによって、それらを用いた運動・行為はスムーズに行われるようになり、それによって、たとえば盲人の世界は広がり、運転席から見える道路や風景の意味も変貌します。つまり、身体的習慣ないし身体的技能の獲得によって、身体の志向性の働き方が変わり、それによって身の回りの世界や、対象の意味も異なって経験されるようになるのです。

 

第1回「現象(意味)」の解説で、私は「今は何でもない“採血”という手技を、新人ナースのころは、今とは異なった(例えばなかなかうまくいかない難しい手技という)意味合いで経験していた」という例を挙げましたが、これも、今述べたことと関係していますね。新人ナースのころは「なかなかうまく行かない難しい手技」という意味で経験されていた「採血」が、身体的学習による習慣化によって、「何の問題もなく行える簡単な看護技術」という意味で受けとめられるようになったわけです。

 

「身体の志向性」の解説の最後に、「間身体性」(intercorporeity)というメルロ=ポンティの概念にも少し触れておきたいと思います。この概念については、「間主観性」というキーワードを解説するときに改めて触れる予定ですが、ここでは、先に挙げた飼い猫ココの例で、ココを抱き上げて胸に抱いたことによって、その心地よい暖かさが手や胸に伝わり、夜勤の疲れが一気に癒されていった点に注目しておきたいと思います。

 

ココを抱き上げて、ココの体の温かさに触れたのはあなたですが、メルロ=ポンティなら、あなたの身体(手や胸)がココに触れることによって、ココ(の身体)から触れられる─つまり相手に触れることによって、逆に相手から触れられる―、そうした「触れるー触れられる」の関係の反転が起こることによって、そこでは身体同士の交流が生じている、と言うでしょう。このような身体同士の交流を、メルロ=ポンティは「間身体性」と名づけましたが、こうした間身体的な交流があなたとココの身体の間で生起したからこそ、あなたはココから触れられることによってケアされて、夜勤の疲れが一気に癒されていったのです。

 

いかがでしょうか。それでは西村先生、看護事例の提示をお願いします。

 

 

       

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

© Japanese Nursing Association Publishing Company

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