セオリーとナラティブ
石垣 野口先生は『ナラティヴの臨床社会学』(野口裕二著、勁草書房、1998)の中で「セオリーとナラティブ」という2つの概念を対比させておられますね。
野口 ナラティブを理解する時にその反対概念を提示すればわかりやすいのではないかと思ったのです。これはもともと、ブルーナーという心理学者が物事を説明したり叙述するために提示した、論理科学モードと物語モードを対比させる概念を借用しています。すべての物事をナラティブで片付けようとすると、逆にそのありがたみがなくなってしまう。ナラティブを際立たせるためには、逆の概念であるセオリー(理論)と比較対照して、セオリティカルに物事を理解し実践する場面と、ナラティブに理解したり実践する場面が両方あることを述べたほうが特徴が出るだろうということです。
石垣 先生がおっしゃるセオリーというものは、一般化や標準化しやすいものですが、ナラティブは非常に個別性の高いものですよね。その両方が必要であると。
野口 はい、もう一つ私が強調しているのは、これまでナラティブは「個別的かつ偶発的で取るに足らないものだから、数を集めて統計でエビデンスを得ないと意味がない」と思われていました。よく事例研究で「1例だけではしょうがないでしょう」という言われ方をされますよね。だけどその考え方で捉える限りナラティブはいつまでたってもセオリーの「材料」でしかないわけです。そうではなく、ナラティブ・アプローチのよさというものは、それ自体の働きの強さや大きさに着目しようということなんです。
斎藤 私自身は、セオリーというものはナラティブのうちに含まれる一つの特殊型だと捉えています。これは野口先生がおっしゃることと説明の仕方が違うだけだと思いますが、例えばナラティブには主人公がいなければならないとか、時間的経過がなければいけない、あるいはクライマックスが必要だなどと言い出すと、どんどんナラティブが使える領域が狭くなっていきます。一方でベイトソンが言うように、言語的なものがつながれば何でもナラティブだとしてしまうと、野口先生がおっしゃるようにそれではセオリーとの違いが際立ちませんし、そもそもナラティブという概念を導入する意味がなくなってしまいます。
あくまでも私個人の考え方ですが、医療現場に限って言えば、ある程度の一般性を持ってロジカルに物事をつなげていく言説と、必ずしも再現性はないけれど、個別の経験を大切にする言説の両方を使わなければ医療というものは成り立たちません。その場合に「これはセオリー、これはナラティブ」と明確に分離してしまうことは、現場では必ずしも役にたたないという実情があります。セオリーは複数の言説の素材がシーケンシャルにつながった時に、そのつなぎ方がロジカルなものだと思います。つまり論理性・客観性・再現性という「特殊な」性質を持ったコンテクスト(文脈)でつながった場合には、それはセオリーと呼ばれる。しかし、ナラティブにおいてはより多様なつながり方をすることが許容されます。例えば詩のことばは論理的なつながりかたをしていませんし、もちろんそれをセオリーとは呼びませんが、詩的な表現は医療においても重要な役割を果たすことが珍しくありません。
こういった捉え方をすることで、ナラティブに当てはまることがセオリーにも使えるようになります。例えば感情の喚起です。これまでの医学は感情を排除することで成り立っていました。冷静に判断するために医者は泣いてはいけないし、患者に感情移入してはいけないと言われてきました。しかし人間が変容する時には必ずなんらかの感情が起こるもので、ナラティブはそのことをものすごく重要視しています。
一方でセオリーも感情を喚起しないわけではありません。人は良いセオリーを発見した時はすごく嬉しいし、おかしなセオリーは気持ちが悪い。感情による判断機能はセオリーにも使えるのです。なぜならセオリーもナラティブ的な性質を持っており、何らかのテクストとテクストをつないで意味づけるものという点では、ナラティブに包含されるものだからです。まずセオリーとナラティブを分けて、それぞれの性質をよく理解した上で両者の共通点を考えていくと、おそらくナラティブのほうがセオリーを包含すると思うのです。ナラティブとセオリーについてのこのような考え方は、『ナラティヴと医療』(金剛出版、2006)の中で、私なりに論じています。
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