[ Part1 近代病院建築事始め──新しい内容と形式]
★1:松本 順
松本 順については、第1話「病院建築の新しい内容」に記した「松本順の蘭疇医院」の項目を参照。
第2話
標準設計とモデル病院
[陸軍病院と海軍病院]
第1話は、松本 順を通して新しい病院建築が備えるべき内容についてお話ししました。今回は、病院建築の形式をどのように与えていったかについて、典型的と考えられる二つのケースを取り上げてお話しします。
一つは標準設計のようなものを定めて建設された陸軍病院。もう一つは西洋の先進的な病院をモデルにして建設されたと思われる東京慈恵医院と海軍病院です※。
※ 初期の病院建築の形式を見るために今回取り上げるのは軍病院ですが、明治時代の代表的な病院の多くは大学の附属病院、当時の言い方でいえば医学校附属病院でした。実は、幕末から明治初期までの時期にも複数の医学校附属病院が開設されました1)。しかし、既存の建物を転用したものも多く、明確な病院の形式を備えたものではありませんでした。そうした病院がどのようなものだったかは、それ自体興味深いテーマではありますが、この連載では病院が病院建築としての形式を整えていたものを中心にお話ししたいと思います。この時期の医学校附属病院について知りたい方は、青木正夫ほか著「幕末から明治初期における学校附属病院の成立過程と配置および平面構成について:幕末から昭和戦前期に至る学校附属病院建築の発展過程に関する研究Ⅰ」(日本建築学会計画系論文報告集, 第376号, 1987年6月)をご参照ください。もちろん、明治9年に竣工する東京大学医科大学附属医院や、明治半ば以降に建設されるいくつかの大学附属病院については別途取り上げる予定です。
明治期の病院建築は、この時代特有の形式をもつものが多いのですが、陸軍病院はその先駆けと考えることができます。一方、東京慈恵医院と海軍病院はナイチンゲール病棟を採用しましたが、これは実は日本ではあまり普及しなかった形式です。ですから、日本の近代病院建築を考えるときには陸軍病院で示された形式のほうがより重要です。しかし、ナイチンゲール病棟のことを念頭に置いておくと、日本の近代病院建築の特徴がよりつかみやすくなると思います。
まずは陸軍病院から見ていきましょう。
病院の規模を定める
軍(兵部省)に出資した松本順★1は、病院建設に関する建議を行いました。「軍局病院ノ事」(1871[明治4]年)というものですが、冒頭に「病院ハ大ナルヘカラス」と書き、次のように述べます。
大院、病者多ケレハ空気早ク変悪シク、病ノ快復ヲ妨ケ、加之院大ナレハ、医俗多人ヲ要スルヲ以テ事々雑擾。従ヒ法則ヲ厳ニスルモ紛冗シク、無用ノ費ヲ多クシ、薬石ノ配分病者ノ処置悉適当ヲ失スル事少カラス。殊ニ当今未ダ医芸十分ニ熟スルモノナキヲ以テ一医多病ヲ療スルコト殆難トスル所ナリ。故ニ病院ヲ設ルハ、宜ク地ノ便ニ従ヒ小病院数箇ヲ建立シ、一院大凡病者百人ヲ入ルレハ已ニ十分トスヘシ。2)
(文中の句読点は引用者)
(大きな病院は、患者が多くなれば空気が早く悪くなり、病気の快復を妨げるうえ、医師や職員も多くを要するため、混乱をきたす。規則を厳かにしても紛らわしく、無駄な費用も多くなるとともに、薬の配分や患者の処置も適切さを欠くことが少なくない。殊に、現在の日本には未だ医術に熟達している者がおらず、一人の医師が多くの病気を治療することはほとんど不可能である。故に病院を設けるときは、宜しく地の便に従い、小規模病院を数個建設することとし、一つの病院はおおよそ患者百人を入るようにすれば十分とすべきである。)
これからつくるべき病院の規模はどうしたらよいか。松本はおよそ患者100人規模が適切だと言い、その理由を、空気の質、職員の効率、現時点での医療のレベル、といった観点から考えています。病院建築を考える重要な観点が含まれていますし、蘭疇(らんちゅう)医院から継続する内容でもあって、なるほどと思います。
しかし、ちょっと腑に落ちないところもあります。よし、患者100人規模の病院が適切だとしても、そうした「小規模病院」を何個つくればよいかがわからないからです。当時も同じように考えたのでしょうか、翌1872(明治5)年に出された新築病院に関する建議は、これに関するものでした。
兵員十分ノ二ヲ病兵トシ其半ヲ営舎病室ニ置キ半ヲ本病院ニ送ル3)
(兵員の10分の2を病兵とし、その半分を営舎病室に収容、残り半分を本病院に送る)
患者数を兵士数の2割と見込んでいることには驚きますが、割合自体は後に少し変更されます。重要なのは、患者数を病兵数の割合でとらえていることです。これが決まれば、建設すべき病院の規模を定めることができるからです。最近議論されている地域医療構想においても、まず構想区域ごとに将来の医療ニーズの全体量、つまり患者数を推計することから始めますね。そしてそれは、人口に対する患者数の割合から計算されます。いま考えているのは軍病院ですから、兵士数に対する病兵数(患者数)の割合をどうみるかということになります。
正しいとらえ方ではありませんが、ごく単純化して病床数を患者数と同じだとしてみましょう。仮に兵士が1,000人いるとすると、病兵数はその10分の2で200人。その半分を営舎病室に、残り半分を本病院に送るとしていますから、本病院に送られる患者数は100人。したがって、建設すべき病院の規模は100床という計算になります。
余談ですが、患者数を病兵数の割合で計算することは、兵士および患者を量的に、あるいは統計的に把握することを意味しています。軍医制度の創設に大きく寄与し、後に陸軍軍医総監となる石黒忠悳★2の回想によれば、陸軍衛生部ではちょうどこの頃(明治6年)より統計の整備が進んでいたと言います。ちょっと面白いので、脱線して読んでみましょう。
余が陸軍に入て思ふやう、陸軍の如き頭数の多き所では、何事も数字の上で証明せねばならぬ、それには彼のスタチステイックが肝要だ(此時はまだ統計といふ字は世にあらはれて居らぬ時だ)それには表が必要だ[……]明治六年以後は、陸軍衛生部の諸統計は、やや備りて、それに年々改良を加へられたから[……]明治廿三年に初めて議会が開かるるので、其前数年前から各省で予算に付ては、種々の下調査があつた、[……]統計表の最も備て居たのは、我陸軍衛生部の統計であつて[……]4)
「数字の上で証明」「統計(スタチステイック)」「表」が連鎖的に並べられているのがおもしろいですが、今の厚生労働省に該当する衛生局が統計的なデータを取りまとめるのは明治8年頃からですから、確かに陸軍のほうが少し早いことになります。
「病室」の建築法を定める
明治5年の新築病院に関する建議には、もう一つ重要なことがあります。それは、軍の医療施設を「営舎病室」と「本病院」というように、体系的な段階構成にしていることです。そして、それぞれの施設のつくり方について、まずは「病室」の建築法を、それから「病院」の建築法をと、順を追って段階的に定めていきました。これが陸軍病院のおもしろいところで、病院を建設するという課題に対して、早い時期からとても体系的に構築していったように見えるのです。私たちもその順序に沿って見ていくことにしましょう。
まずは「病室」について。陸軍軍医団が編纂した『陸軍衛生制度史』5)によると、1873(明治6)年に「歩兵営病室図解」が定められました。「図解」とありますから、モデルとなる図面も作成されていたはずですが、残念、『陸軍衛生制度史』では図が省略されてしまいました。しかし、説明文は残しています。少し読んでみましょう。
我内務規則ニ拠ルニ、各地鎮台ニ病院ヲ置キ、営内病室ハ軽症ニシテ若干日ノ療養ヲ加フレハ平癒スヘキ者ヲ容ルルモノトス。[……]我編制、一大隊下士官以下七百七十一人之ヲ十分ニシテ、大約病兵八十名ノ比例ヲ以テ設ケ、中央ヲ附属室トシ其両側ヲ患者室トシタリ。5)
(文中の句読点は引用者による)
(陸軍の内務規則に拠ると、各地の鎮台には病院を設け、[それぞれの部隊に設ける]営内病室には軽症で若干の日の療養をすれば治癒する患者を収容するものとしている。[……]陸軍の編成では、一大隊は下士官以下771人なので、営内病室は病兵数をおおよそ80人として設ける。中央を附属室とし、その両側を患者室とする。)
「営内病室」には軽症の患者を収容するとありますから、鎮台に設ける「病院」には重症の患者が入院するはずですね。軽症の患者を収容する「病室」の規模は、771人の「大隊」に対しておおよそ80人としていますから、先ほどの明治5年の建議にある通り、兵員の10分の2の半分、つまり10分の1と略算していることがわかります。では、この80人規模の「病室」はどのように造るのでしょうか。続けて読んでみましょう。
患者室ハ病兵八十名ヲ二室ニ区分シテ四十名トシ、又之ヲ二分シテ、二十名毎ニ隔壁ヲ設ケタリ。[……]窓ハ大気ノ流通ヲ多クスル為ニ、臥床二個毎ニ一個ノ比例ヲ以テシ、且患者ノ腐敗気ヲ散去シ新鮮気ヲ交換シ易カラシムル為ニ、窓ノ高サ他ニ比スレハ稍[やや]多クシタリ。5)
(患者室は病兵80人を2室に分けて40床室とし、またこれを2分して、20名ごとに隔壁を設ける。[……]窓は空気の流通を多くするため、2床ごとに一つの割合で設け、かつ、患者から発生する腐敗気を取り除き、新鮮な空気に交換しやすくするため、窓の大きさを他に比べやや大きくする。)
80名の患者を40名ずつの2室に分けてから、さらに二分して20名ごとに隔壁を設けるとあります。そうすると、この病室は40床室でしょうか、それとも20床室でしょうか。数字は少し違いますが、翌年の鎮台病院の建築法でも同じような説明の仕方が繰り返されます(16人部屋を半分に分けるなど)。このようなややこしい説明の仕方をしている理由は明らかではありません。40床は、現在の基準で考えると一つの看護単位としてちょうどよい大きさに思えるのですが、それでは大きすぎる気がしたのでしょうか。
引用文の後半には、病室に設ける窓について書かれています。数をベッド数と関連付けたり、大きさを換気しやすさから説明したりしていることに注意しておきましょう。患者から発生する有毒な空気を取り除き、新鮮な空気を供給することこそ、今後の病棟や病室づくりの基本となるはずですが、これについては次回お話しする予定です。
病院の建築法を定める――「鎮台陸軍病院一般ノ解」
これまでの流れを整理してみましょう。
このような準備をして、1874(明治7)年に「鎮台陸軍病院一般ノ解」5)が制定されました。
鎮台とは、明治初期に各地(東京、大阪、熊本、仙台、名古屋、広島)に駐留した軍隊のことです。鎮台陸軍病院は鎮台に設けられた陸軍病院のことで、後に「衛戍(えいじゅ)病院」と呼ばれるようになります。鎮台病院も衛戍病院も軍の制度と関連した名称ですが、ここでは陸軍の主な駐屯地に設けられた本格的な病院のことと考えておけばよいでしょう。ですから、「鎮台陸軍病院一般ノ解」は、本格的な陸軍病院のつくり方を定めたガイドラインあるいは標準設計のようなものです。以下ではこれを「一般ノ解」と称して、少していねいにみていきましょう。
陸軍はフランス式、海軍はイギリス式
「一般ノ解」の冒頭には、こんなことが書いてあります。
仏国工兵大尉ジュルタン氏ニ商議シ、仏国各種兵営ノ制ヲ斟酌シ以テ我国諸兵ニ便ナルヘキ営舎ノ図ヲ制定セリ。而シテ軍事病院ノ制未タ定ラサルヲ以テ、二千五百三十四年[=1874(明治7)年]第一月陸軍々医部ニ於テ議定シ、之ヲ各鎮台ニ建築センコトヲ請フ5)
(日本の陸軍兵営の建物はフランス工兵大尉ジュルタン氏に相談し、フランスのそれを斟酌して営舎の図を定めている。しかし、病院の建築法はまだ制定されていないため、陸軍軍医部で議論して定め、これを各鎮台に建築することを請う)
1870(明治3)年に出された常備軍の兵制に関する布告では、「海軍ハ英吉利式陸軍ハ仏蘭西式ヲ斟酌御編制相成候」6)と、海軍はイギリス式を、陸軍はフランス式をそれぞれ斟酌して編制するとされました。病院建築についても、海軍はイギリス式を、陸軍はフランス式を、それぞれ「斟酌」したのでしょうか。
海軍は、後でお話するように、間違いなくイギリス式の病院を導入しました。陸軍においても、「一般ノ解」の制定に当たっては「フランス式を斟酌」したのではないかと、筆者は推測しています。そう推測する理由の一つは、「一般ノ解」で説明されている建物の配置が、フランスはパリのラリボアジエ病院★3によく似ているからです。ラリボアジエ病院は1854年に建設された病院で、当時としては最も完全な形式の病院と考えられていました。
もう一つの理由は、1893(明治26)年になされた「陸軍病院建築法審査委員」の設置に関する具申の中で、次のように述べられているからです。
陸軍病院建物ノ義ハ、明治ノ初年、本省建築局ト当時ノ軍医寮トノ商議ニ依リ、軍隊編成ニ基キ、尚仏国ナトノ建築法ヲ参酌シ建設ノ大体ヲ定メラレタルモノニ有之候処5)
(陸軍病院建築については明治の初年、本省建築局と当時の軍医寮との協議により、軍隊の編成に基づき、なおフランスなどの建築法を斟酌し建築の大体を定めたところであるが)
「明治ノ初年」の範囲がいつまでを含むのかは不明ですが、「建設ノ大体ヲ定メ」たとあるのは「一般ノ解」を指すものと推測されます。陸軍兵営の建築法に関与したフランス工兵ジュルタン大尉の名前をわざわざ引き合いに出していることと合わせて考えると、陸軍病院の建築法つまり「一般ノ解」は、主にフランス式を参考に制定されたと考えてよさそうです(実はこの頃、医学自体に関してはドイツを範とすることが決まっていましたから、海軍では医学も病院建築もイギリスを範としていたのとは対照的です)。
ここでは「一般ノ解」が軍医たちの主導でまとめられたことを確認しておきましょう。後に病院建築に関する理論が議論されたときにも、陸軍の軍医たちが重要な役割を果たしました。これは次回お話ししましょう。なお、ラリボアジエ病院は重要なので、第7話あたりで再び取り上げることにします。
規模の設定
「一般ノ解」における病院建築法の説明は、患者数を改めて計算することから始めます。例として掲げられたのは大阪鎮台の場合です。兵員を「士官」と「下士以下兵卒」とに区分してから、患者数をそれぞれ100分の15と算定します。そのうち、100分の10が軽症病兵、100分の5が重症病兵です。明治5年の建議では重症病兵を10分の1としていましたから、半分に減らしたことになります。士官・兵卒合わせて3,255人ですから、重症病兵、つまり入院が必要な患者数は3,255人×100分の5≒162.5人です。
重症病兵はさらに、外科、内科、眼科、梅毒、癲狂(てんきょう:狂気)に区分されました。その構成比は、外科20%、内科50%、眼科15%、梅毒10%、癲狂5%です。眼科と梅毒の患者数の想定が目を引きますが、当時の疾病状況を表しているのでしょう。伝染病(当時の名称です)については重症病兵数の10%として、別途計上しています。
以上の計算をまとめたのが図1および表1です。後者の下段には、後でお話しする熊本鎮台病院の図(図2)から数え上げた病床数を記しました。「一般ノ解」での計算例と、熊本鎮台病院の図で数え上げた病床数を比較してみると、外科が5%増え、眼科が5%減っていたり、端数を調整したりするなど、外科・内科・眼科の患者数割合が多少変更されていることがわかります。
しかし、伝染病床を除く病院の病床数は162床で、「一般ノ解」が算定した重症病兵数とほぼ同じです。伝染病床は士官病兵数0.5人のところを4床、兵卒病兵数15.5人のところを16床とし、計算される病兵数より少し大きくなっています。建物としては、伝染病用の病舎だけでなく、癲狂用の病舎も病院本体から分離し別棟としています。
図1「鎮台陸軍病院一般ノ解」における病兵率の想定
伝染病患者は重症病兵数の10分の1として別途計上
表1「鎮台陸軍病院一般ノ解」の重症病兵数の計算例と熊本鎮台病院の病床数
「一般ノ解」では癲狂患者は重症病兵数の内数で計算し、伝染病兵数のみ別途計上している。熊本鎮台病院の図では、計算方法は同じだが、建物としては伝染病舎に加え、癲狂病舎も別棟としている。
病院建築を計画する際の第一歩は、規模(病床数)を設定することです。「一般ノ解」は兵士数に対する重症患者率を決めて病床規模を設定し、それから内科、外科など診療科ごとの患者の割合を決めていったことがわかります。明治7年の段階でここまでできたことは、実に驚くべきことだと思います。
★2:石黒忠悳(いしぐろ・ただのり)
★3:ラリボアジエ病院
「建築家が読む『病院覚え書』」(長澤 泰)も参照。