< ● ●
病院建築の「内容」と「形式」
全体の構成および病棟の形式においてはあまり違いがないとすれば、小石川養生所と長崎養生所の違いはどこにあるのでしょうか? それは端的に管理棟に設けられている部屋の種類です。長崎養生所には手術室が設けられていたのに対して、小石川養生所には手術室や処置室に該当する部屋は見当たらず、その代わりに薬関係の部屋が多数設けられています。これは西洋医学と漢方医学の医療方法の違いによるものですから、当然と言えば当然ですが、とても重要なポイントです。
論点を明確にするために、建物を「内容」と「形式」に分けて考えてみることにしましょう。
その建物で行われる特定の活動を「内容」、その活動を円滑に行うために必要な空間や設備のパターンを「形式」とします。例えば学校であれば、教育の活動が内容であり、教室という空間の設えや平面構成が形式となります。劇場であれば、そこで上演される歌舞伎やオーケストラ、オペラといったものが内容であり、舞台と観客席の配置や構成方法を形式と考えることができます。
病院は「患者の診察、治療」を内容とする建物です。その内容が、漢方から西洋医学に変わったのですから、病院の形式も当然変わるわけですし、それがまずは病院建築の構成要素としての部屋の種類の違いとして現れてくるわけです。病院建築の歴史は、それが内容とする診察、治療の変化に追随しながら、それらを最も効果的に行える固有の形式を探求していく過程にほかなりません。
しかし、近代以前の医療施設と、近代以降の病院との内容上の違いは、それが漢方に基づくのか、それとも近代西洋医学に基づくのか、という点しかないのでしょうか? もしそうであるなら、医学史的にはともかく、建築計画史的にはやや面白みに欠けることになります。薬による内科的治療から手術・処置による外科的治療へ重点が変わったため、薬関係の部屋が減って手術・処置室が加わっただけですから。
もちろん、そうではありません。つくられ始めたばかりの近代西洋式病院が、それまでの伝統的な医療施設とどう違うのかについて、極めて自覚的だった人がいます。長崎養生所で頭取を務め、後の日本の医学に大きな足跡を残した松本 順です。
そこで、松本が維新後に設立した日本初の私立病院を通して、近代以前の医療施設と近代以降の病院とがもつ内容の違いについて、考えてみることにしましょう。
松本 順の蘭疇(らんちゅう)医院
松本 順(1832-1907)は、佐倉順天堂を開設した佐藤泰然の次男として生まれ、幕府侍医・松本良甫の養子になりました。佐藤泰然は当時の代表的な蘭方医の一人で、佐倉順天堂は言うまでもなく、現在の順天堂医院につながる蘭方医学塾です。ですから松本は、幕府侍医を継ぐはずでありながら、西洋医学を身につけていたのですが、やがて幕府の命令で長崎に赴き、ポンペから本格的に西洋医学を学びました。
その後、江戸に戻って西洋医学所の頭取になり、戊辰戦争では幕府側の医師として活躍します。維新後は、謹慎──幕府側の医師でしたから──の後、日本初の洋式私立病院とされる「蘭疇(らんちゅう)医院」を設立しましたが、まもなく明治政府に呼び出されて出仕し、初代の陸軍軍医総監を務めます。日本の近代西洋医学の胎動期に大活躍した人で、近代病院建築の始まりを見るうえでこれほど適した人物はほかにいないと思います。
余談ですが、松本の元の名前は「良順」でした。維新後、明治政府に出仕した際に「良」の字を取り、以後単に「順」と名乗るようになります。彼の心意気が垣間見られるようで、ちょっと胸を打たれます。
さて、私たちが知りたいのは、近代以前と以後の病院建築の違いです。松本が設立した蘭疇医院に関する文書を通して考えることにしますが、その前に、松本が自伝の中で紹介しているエピソードを見ておきましょう。以下の引用冒頭の「ある日」は、蘭疇医院を運営していた1870(明治3)年頃のことです。
ある日客あり。名刺を通じ、病院の模様一覧を請うと云う。その名を視るに、ただ山県狂介と署名あり。[……]まず院中を巡視せんことを望まるるを以て、先導して宿室・薬局・庖厨・浴室・厠に至るまで、残すことなく周覧し終わり、[……]予[=山県]は欧州を巡回し、近頃帰朝す、君[=松本]の病院を建築せらるることを聴き、欣慕[きんぼ=喜び慕う]に堪えず、突然来訪し清閑を妨げたり、病室内外の構置、完全にして、洒掃[=掃除]至らざる処なく、大いに感じたり、然るに、未開の国、ようやく兵部省あるも、最も必要とする衛生部なし、しかして、このことをなさん者、他にその人なし、出でてこれを主宰することあらば、予必ずこれを任ぜん。3)
(下線は筆者)
(ある日突然、山県狂介と名乗る人が現れ、病院を見せてくれと言う。院内を隅々まで観終わってから、「自分はつい最近ヨーロッパを巡視して帰ってきたのだが、君(=松本)が病院を建てたというので、どうしても見てみたくなって訪問したのだ。病院の内外の構造配置は完璧で、掃除も行き届き大変感銘を受けた。日本はようやく軍隊をつくったのだが、最も必要な軍医部がまだない。それを創設する適任者は君をおいて他になく、もしやってくれるならば君に任せよう」。)
ここに登場する山県狂介は、言うまでもなく明治時代に活躍した政治家・軍人の山県有朋のこと。まあ、いかにも山県のやりそうなことですが。文中に「衛生部」という言葉が使われていますが、「衛生」は1874(明治7)年に長与專済によって発案された翻訳語なので、山県が口にしたとは考えにくいですね。松本の回想を記した文なので、軍医部のことをそう言ったのだと考えておけばよいと思いますが、こんな細かいことはいいとして、松本が山県有朋の招聘を受け、明治政府の兵部省に出仕することになった経緯がわかると思います。
山県が「完全」であるとした「病室内外の構置」がどんなものだったか大変興味深いことですが、残念ながらこれもよくわかっていません。松本の兵部省への出仕後しばらく軍病院として使用されたのち閉鎖され、信頼に足りる図面等も残っていないからです。ただ、鈴木要吾という人が著した『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』8)には、こう記されています。
凡て建物は東寄りに構え、西北南の三方は庭園であった。病院本館は洋式であって、北寄りの所に二階建ての四、五十人を収容する事のできる寝台据えの病室があった。南寄りの入院室は三十人ばかり収容の畳敷の部屋で三方ガラス張りという洒落たものだ。この両入院室の間に玄関、医員詰所、診療所という態に並んで居て、やはりガラス窓造りという按配。その他に会計員詰所、賄所、小使部屋、浴場のある別棟があったものだ。
基本的には2棟の病棟と、その間に管理棟から構成されていた、つまり、長崎養生所とほぼ同じ構成だったことが推測できますが、ベッドの病棟(病室)と畳の病棟(病室)が相並んで設けられていたことが面白いですね。例えば、順天堂医院は1900(明治33)年の段階でもまだ畳敷きの病室でしたから、半分以上の病床をベッドとしたことは先進的と言ってよいでしょう。病室にはそれぞれ10人を収容していたようです。長崎養生所が15人室でしたから、それより小規模の病室だったことになります。
近代病院の新しい内容
松本は蘭疇医院の運営にあたって、その基本的な考え方や運営方法などを表した「蘭疇医院定則」9)を定めていました。そこには松本が新しく始まる近代病院の役割(内容)をどのように理解していたかがよく表れています。「蘭疇医院定則」はまず、漢方医学の「臆断」と無知を批判するところから始めます。
なかんずく養生の法に至っては転倒殊に甚だしく、毫も衣食家室の生命に関するを知らず、患者の体力日々虚憊するを顧みず、空気の功用風潮損益の人身上に在って何等の利害ある事を極る者なし。たまたま病者に臨む[ときは]必ず飲食を減じ膏梁[=美味い食べ物]を戒め、窓戸を閉し、障屛をめぐらし、苟[いやしく]も居室の温なるをもって第一法とし、強いてその生気を損耗し、もって消衰死に至らしむ。その悪弊の人心に固結するや、すでに千年の久に至る。
(漢方医学は特に患者の「養生」について誤解が激しく、衣食や建物が生命に影響することをまったく知らない。だから、患者の体力が日々むなしく消耗されることも顧みず、人体にとって新鮮な空気がいかに重要かを理解する者もいない。患者を診るときは決まって飲食の量を減らし栄養の高いものを避け、室内は閉め切ってしまい、部屋を暖かくすることを何より重視するため、患者の生命力を消耗させ、衰弱させてしまう。その間違った論理がこびりついて、すでに千年も続いている。)
かなり激しい批判ですね。批判の是非はさておき、漢方医学の無知は、何よりもまず「養生」に関することだと述べられています。養生とは、「生命を養うこと、衛生を守ること、病気・病後の手当てをすること」(広辞苑)の意味です。ここでは特に、建物や部屋、空気の在りようが患者の生命ないし生命力にかかわる、と認識されていることに注目しましょう。漢方に基づく病院環境では、部屋を閉め切り(そうすると、患者に新鮮な空気が供給できなくなります)、温かくするばかりで、患者の生命力を弱め、衰弱させてしまう──つまり、漢方が指示する病院環境は患者に害を与えていると言っているわけです。
皆さん、これ、何か思い当たることはありませんか? そう、ナイチンゲールです。ナイチンゲールは「病院がそなえているべき第一の必要条件は、病院は病人に害を与えないことである」(『病院覚え書』)10)という歴史的な名言を残しました。筆者は学生の時分にこのことを長澤先生から教えられ、いたく感銘を受けたのを覚えていますが、実際の仕事に就くようになった今でも、病院の建設に携わる者すべてが何よりもまず肝に銘じておくべきことと考えています。
ナイチンゲールの考えでは「よい病棟とは、見かけがよいことでなく、患者に常時、新鮮な空気と光、それに伴う適切な室温を供給しうる構造のもの」です。松本が「蘭疇医院定則」の中で述べたのもほぼ同じだといえるでしょう。病院は患者に害を与えず、その生命力を助けられるよう環境を整えるべきだと言っているに等しいですから。これこそ、病院が備えるべき新しい内容の2番目の観点であり、その後の明治時代を通して病院建築に関する最重要論点となったもので、後に「衛生」と表現されるものにほかなりません。
松本が開設した蘭疇医院は、西洋医学という新しい内容の医療を提供する病院でした。その概要を説明する際に、まず従来の漢方医学が「養生」を理解していないと批判しています。ならば、自分の病院では、正しい「養生」法に則って医療を提供すると主張するはずです。「蘭疇医院定則」を続けて読んでみましょう。
[蘭疇医院は]居室飲食の法、衣衾調度の法、悉[ことごと]く実際の養生に随い、天真の治療を施し、その看護といえどもまた徒弟のこれに通暁[=非常に詳しく知っている]する者をして是が宰たらしめ、日々診察を密にし、その証を詳らかにし、而して是に薬し、之を療し、こいねがわくばあいにく夭折の者を済[すく]い、兼て医科の世道人身において大関係ある事を知らしめ、以て国家を利せんと欲す。
(蘭疇医院では、病室の構造や食事の方法、着るものから寝具、身の回りのものに至るまで、ことごとく正しい養生の方法に従い、自然のままの正しい治療を行い、医学をよく熟知している弟子が看護を司り、毎日充実した診察を行い、その因果関係を明らかにしたうえで治療を行う。願わくは重篤な患者を救い、合わせて医学が人々や社会にどれほど重要かを知らしめ、国家に貢献することを欲する。)
この引用文の前半部分では、3つのことが蘭疇医院の特徴として取り上げられています。患者の環境や飲食における「実際の養生」、自然のままで偽りのない「治療」、そして専門的知見に基づく「看護」です。後半部分は、治療の心構えと目標を述べています。「実際の養生」云々は、先ほどの漢方医学への批判に対応するものですね。「治療」に関するものは、先に説明した医療の内容の変化に該当するものと理解することができます。
そして「看護」ですが、松本が自らの新しい病院の特長として「看護」を取り上げていることは重要です。特に、看護にあたるのが医学を熟知している弟子であることが強調されていることに注目したいと思います。なぜなら、こうした専門的な知識を有する者による看護の観点もまた、近代以前の医療施設には見られなかった内容だからです。
ポンペは、患者が付添人を連れてくることに苦言を呈していました7)。付添人が必要なのは、言うまでもなく当時の人々が、病院から十分な看護を提供されるとは期待していなかったからであり、また、看護にあたる者が医学知識をもつ必要を感じなかったからであり、そもそも看護を身の回りの世話程度にしか考えていなかったからです。そのポンペに学んだからでしょう。「蘭疇医院定則」には、たとえ患者が看病人を連れてくる場合でも、その指示は病院の看護スタッフが与え、さらに、夜は病院の看護スタッフのみとする、と定めています。言い換えると、松本は病院における看護の専門性、重要性をかなり明確に認識していたことになります。ですから看護が、近代病院がもつ3つ目の新しい内容となります。
以上をまとめますと、松本は新しい病院が備えるべき内容として「養生」「治療」「看護」を取り上げていたということができます。「養生」を後につくられる言葉である「衛生」に読み替え、「治療」を近代西洋医学に基づく医療と理解すれば、近代西洋式病院がもつ新しい内容を以下のように書き換えることができます。順番はここでの説明の流れに合わせて変更します。
① 新しい医療
② 衛生的な環境
③ 専門的な看護
先ほど、病院建築の歴史とは、病院建築がもつべき内容を最も効果的に行える固有の形式を探求していく過程だと言いました。明治以降の病院建築は、実際にこの3つの内容にどのような形式が相応しいかをめぐって展開していくことになります。①の医療の観点は病院である以上当然のことですが、建築計画の面からまず重要だったのは、②の「衛生」の観点でした。③の看護の観点は、看護師の養成が比較的早くから行われたにもかかわらず、建築計画上の論点となるのはずっと後のことです。
ここまでのお話では、新しく導入される近代西洋式病院がもつ新しい内容に関するもので、まだ近代病院の固有の形式に関することは議論されていません。
次回からは、ここで取り出した近代病院のもつ内容がどのような形式となっていったかについてお話しすることにします。
◉引用・参考文献
< ● ●
コメント: