さて、この事例では、肺がんで入院した患者Tさんが訴える「息苦しさ」と、看護師Bさんや担当医師が捉えようとした「呼吸苦」との間のズレ、そしてTさんが自分の状態を「息苦しい」と意識しているその捉え方と、看護師Bさんや医師が行おうとした「医学的な評価」の捉え方との間とのズレが、一つの大きなテーマになっていると言ってよいでしょう。

 

患者Tさんは「息苦しい」と訴えます。つまりTさんには自分の状態が「息苦しい」と捉えられ、意識されています。それがTさんの意識の志向性です。看護師Bさんは、Tさんのその息苦しさの経験について「入院して2か月あまりで亡くなった」その病状の進行の「速さ」が、自らの状態を「息苦しい」と意識させた可能性があると、後から振り返って推測していますが、おそらくはそうした意識の捉え方こそ、医療の知識も経験も十分に持ち合わせていない一般の私たちが、そのような状況におかれたときに行う「自然的態度」の意識の捉え方なのではないでしょうか。

 

けれども、看護師Bさんが、Tさんの「息苦しい」という訴えに対して最初にとった意識の態度は、これとは異なっていました。Bさんは、酸素飽和度をサチュレーションモニターで測定したり、肺換気音の聴取をしたりして容態の確認をします。しかし問題はなく、「原因」は見つかりません。担当医師もまた、「息苦しさ」の「原因」を、「がん性疼痛に関連した過呼吸」と判断して、「酸素吸入と麻薬の投与」を行いますが、それ以上は「検査結果では所見にない」と捉えてしまいます。

 

こうした看護師Bさんや担当医師の態度は、先の解説を踏まえれば、「自然科学的態度」として捉えられるでしょう。Bさんは、「息苦しい」という患者Tさんの訴えに対して、酸素飽和度をサチュレーションモニターで測定したり、肺換気音の聴取をしたりして容態を確認しますが、そうした「解剖生理学的根拠」(エビデンス)に基づいて息苦しさの「原因」を突き止めようとする自然科学的・「医学的」な態度では、医師の対応の仕方において顕著なように、「検査結果」が「解剖生理学的根拠」に基づいて「正常範囲内」である場合、もはやTさんの息苦しさは「説明できない」ものとして捉えられてしまうのです。

 

そうした「医学的な評価」を行う自然科学的・医学的態度は、Bさん自身によっても、あとから振り返って、Tさん自身の「息苦しい」感覚と「乖離」していたのではないか、と気づかれています。

 

医師も看護師も、医学や解剖学、生理学等々を学び、そうした見方で患者を見る経験を積み重ねることによって、知らず知らずのうちに、自然科学的態度(医学的なものの見方)が身につき習慣化して、患者をつねに医学的な視点で捉えがちになります。しかしこうした習慣化は、私たちの日常生活のベースになっている意識の態度、すなわち自然的態度によるものの見方・捉え方を忘却することを意味し、その結果、患者自身がどのように疾患を受けとめ、どのような問題を抱えながら日常生活を営んでいるかが、見えにくくなります。

 

上の事例では、患者Tさんの「息苦しさ」が、「呼吸苦」に置き換えられて表現され、その原因が「がん性疼痛に関連した過呼吸」と判断されていくところに、こうした事態が如実に表れていると言えるでしょう。患者がみずからの疾患やその症状を捉えている意識の自然的態度に、医療者もまた立ち戻り、患者が経験している苦しさを「その人の苦しみとして受け止めてケアをする」ためには、医療者自身がときに応じて自らの「自然科学的態度」を棚上げする必要があるわけです。

 

フッサールはそのための意識的な操作として、自然科学的態度を「遮断」し、自然科学的な知見を棚上げして「カッコに入れる」、「生活世界的エポケー」という方法が必要だと説きますが(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』)、興味深いのは、上の事例では、看護師Bさんが、「息苦しさ」を訴え続け「ハァハァと息をしてぐったりして」いるTさんを目の前にして、考えあぐねた末に「呼吸介助と背中をさするマッサージ」を試みるなかで、意識的に自然科学的態度を棚上げするというよりは、身体的経験を通じてごく自然に、自然科学的・医学的態度から自然的態度へと立ち戻っていったように推測されることです。

 

患者Tさんは、Bさんが呼吸介助やマッサージを行っても、一度も「楽になった」とは言わず、「息苦しさ」が「ある」と言っていたようですし、Bさんも後から振り返って、「Tさんの息苦しさをなくすことはできなかったと思う」と述懐しています。けれども他方でBさんは、Tさんに対して呼吸介助とマッサージの「ケアを行った後は確かに、〔Tさんの〕息がしだいに静かになっていき、ナースコールの回数も少なくなって」いたことを確認しています。

 

自然科学的・医学的な態度では捉えられなかったTさんの「息苦しさ」は、患者Tさんの胸の動きに合わせて呼吸をサポートしたり、Tさんの背中に直接触れてマッサージしたりするBさんの身体的関わりによって、なくすことはできなかったとしても、確かに減じていきました。この身体的関わりに裏付けられた経験のなかで、Bさんの自然科学的・医学的なものの見方が次第に解除され、Tさんの息苦しさを「その人の苦しみとして受け止め」る意識の自然的態度へと、Bさんは立ち戻っていったように、私には思われるのです。

 

とすれば、こうしたBさんの意識の態度と志向性の変化に、マッサージによる直接的な身体的関わりや、さらにはTさんの胸の動きに合わせて呼吸をサポートする際の身体的交流がどのように関係しているのかが、新たな疑問として浮かび上がって来るのではないでしょうか。

 

次回は、身体の志向性について、解説したいと思います。

第3回へつづく)

 

 

   

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