ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ (Ludwig Mies van der Rohe : 1886~1969)

ドイツ生まれ。ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライトとともに、近代建築の三大巨匠といわれる。バウハウスの校長を務めるが、ナチス政権樹立により、アメリカに亡命し、後に帰化する。モダニズム建築の代表的な建築家。

ル・コルビュジエ「ヴェネチア病院計画」(1964)

trevor.patt  Freespace in place: Four unrealized modern architectural designs for Venice (CC BY-NC-SA 2.0)

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ル・コルビュジエのヴェネチア病院計画をモデルにした病棟配置

 

前述のように、私たち3人にとっては、“この場所には低層の病院”というのはしごく当然の発想であった。しかし、低層にするという提案に批判的な意見もあった。そこで、私たちは基本構想の段階で、病院建築について研究を重ねた。その結果、低層の建物にした場合に想定されるほとんどの課題は機能的に解決できるものであり、病院を低層にすることはそれほど難易度の高い建築類型ではないことがわかった。

 

さらに海外の病院建築の事例を調べてみると、ヨーロッパには3層程度の病院の例が数多くあることを知った。そこに「ナイチンゲール病棟」という説明が入っているものも散見された。

 

私たちは、このプロジェクトを引き受けた当初より、ル・コルビュジエの「ヴェネチア病院計画」をモデルにしたイメージを持っていた。ル・コルビュジエが晩年に計画したヴェネチア病院は、低層(4層)建築で、最上階を自然環境にあふれる病棟にしてあるのが特徴的である。アンビルド(実現しなかった)であるが、その設計計画は広く知られている。

 

タワー型の病院建築では、看護単位ごとに病棟を積層することで空間構造が決定されるのであるが、ヴェネチア病院では最上階に平屋で配置される病棟によって、建築の空間構造が決定されている。

 

通常、病棟には、院内感染を防ぐために、十分な自然採光と自然換気が要求される。そのため、タワー状の病棟計画の場合はペリメーターゾーン(外界条件の変化の影響を受けやすい外周部分)に病室を貼り付けるのであるが、ヴェネチア病院では、採光通風条件の良い屋上庭園の中に集落をつくるように病棟を設置している。このことを知った私たちは、病棟は最上階にムラのような集落を設計すればよいということに気づいた。これは平屋の集合住居計画のようなものなので、設計の難易度はさほど難しくない。

 

諸室はベッドの配置と設備の関係で自動的に決まる。どの病室も接地した平屋の家のように庭をもち、採光通風などの自然環境は良好である。この中庭が隣棟間隔をつくり、その空気のクッションが採光や換気を担保し、同時に感染やプライバシーを守る。このユニットを、看護単位のまとまりの中で配置する計画を立てた。

 

(撮影:坂元 永「ナーシング・トゥデイ」2003年2月号「建築の風景」より)

 

外部空間をふんだんに抱え込んだポーラス(多孔質)な病棟のプレート(平面)をピロティ(1階部分を柱だけの空間とし、2階以上の部分を支える形式)で持ち上げるようにして、その下層部に診療・検査部門を設けるのである(前ページ冒頭の写真)。

 

免震装置を配置する計画があった関係で、コラムあたりの荷重を必要としたので、9メートルスパンというスーパーフレームとし、そのコラムをCFT(コンクリート充填鋼管構造)で設計することにした。その結果、低層部の機能配置の自由度が高くなった。病棟のプレートの直下には設備フロアーを設け、病棟と診療・検査部門を挟むように管理部門や院内学校などの医療サポート部門を配した。

 

カウンター業務のように外来を受け付ける忙しい診療部は地表階(1階)に設けた。そこは空港のロビーのように大らかな空間で、空気を流動させている。病棟の平面計画でフットプリント(専有面積)が決まるため、1階に設ける診療・検査部門は大きく面積を残すことになったのだが、そこを将来の増築可能部分としたり、災害時の公的な拠点になる大きなパブリックスペースとなることを意図していた。

 

(撮影:坂元 永「ナーシング・トゥデイ」2003年2月号「建築の風景」より)

 

このように、ダイアグラムモデルをヴェネチア病院から学び、最上階の採光通風のよい場所を中庭付きの病棟にすること、そして地表階を含む低層部分は、街の広場のようなおおらかなパブリックスペースとすることを実現できた。

 

ル・コルビュジエやミースのようなモダニズム建築の巨匠たちは、建築による変革を目指して社会を啓蒙して作品を作り、その影響はインターナショナルスタイルとして広く世界の隅々にまで及んでいった。しかし、日本での街づくりはその地域や人々の特性を活かすことを大切にしており、建築家たちは人々との対話により、様々な思いや条件の中で合意形成を図りながら建築を作る「調停者」のような役割を果たしている。

 

近代の巨匠たちは社会を啓蒙し作品を作ったが、街づくりにおける建築家は、調停者として人々と対話し、運動体を作っていくのである。私たちの白石市での役割はまさにそうした調停者であり、ワークショップのファシリテーターであったといえよう。

 

建築家の役割のパラダイムシフト~新たな建築家像へ

 

 

東日本大震災を経験して

 

竣工から10年近くが経った2011年3月、東日本大震災が起こった。

 

地震のニュースを聞いたとき、私は白石市のこの病院のことがすぐに頭に浮かんだ。公立刈田綜合病院には免震装置を設けていたので、建物そのものの機能は保全されているだろうと考えたが、設計時に意図していた災害時の救援拠点になり得ているのかを知りたかった。病院1階の診療部門に接続して大きなホールを、そしてエントランス前には大きなピロティ空間を設けており、そこを非常時にパブリックな救援拠点として使うことを想定していたからである。

 

白石市役所に連絡をとったところ、病院の建物の無事は確認できたが、使用状況は不明であった。ニュースで公立刈田綜合病院が災害拠点病院として機能していることが報道されていたので、病院機能は保全されていたようである。

 

後日、私は直接病院を訪ね、確認してみた。自家発電装置が免震装置の外に設置してあったため、その復旧に時間がかかったとの報告を受けた。設計時には、緊急時に野戦病院のように対応できる空間にしようと考えて1階に大きな空間を設けていたのだが、そのようには使われていなかったようである。しかし、免震装置が設けてあったため、建物内部の被害はまったくなかったとのことだった。

 

病院には薬品や医療機器が置かれているので、もし免震装置がなかったならば、復旧に多くの時間を要したと思う。また、手術などの治療は地震時であっても中断できないことを考えれば、地震の多発する日本の病院には免震装置は不可欠であろう。

 

もうひとつ、この病院に建物被害がなかったのは、低層であったことが重要だったと考える。低層であれば、地震以外の災害時でも入院患者の避難をスムーズにできるし、インフラを失ったとしても持続していく可能性をもつからである。何よりも、平常時のエネルギーコストが低く抑えられ、使う人々のストレスも低い。低層の空間構造であることは、病院建築には大切なコンセプトであると、改めて確信したのだった。

 

 

病院設計の未来に向けて

 

前述のように、病院の設計は難易度が高いとされ、病院設計に手慣れた設計事務所に任されるのが通常であり、建築家のアトリエ事務所のような小規模なところには参入障壁が築かれている実態がある。しかし、当時の川井市長の英断により、私たちのような小さなアトリエ事務所の建築家にも、このような大型の病院建築の設計をする機会が与えられた。実際に病院設計をやってみると、通常の設計業務と大きく変わるものではなかった。

 

どのようなプロジェクトであっても、立地や施主の要求内容や施工にかかわる人々は異なるので、新しくゼロから思考して組み立てていくのが建築である。しかし病院建築と同様に、学校や美術館、特殊な施設の建築などは、一般的には設計業務の参加資格に過去実績が求められる場合が多い。

 

日本では、公共建築の指名コンペだけでなく、一般コンペであっても、建築事務所の規模や過去の実績によって参入障壁が設けられている。フランスの公共コンペでは、必ず未経験者にエントリー枠を残してあるという話を聞いたことがある。建築はハードウエアとして社会の枠組みをつくることになるので、社会に対する責任は大きい。だからこそ、社会を管理する側=官僚システムは、過去の実績や技術者の人数によって参入障壁をつくり、従前と同じ安定した枠組みを要求しているのだろう。

 

しかし、社会を構成する人々は漸次入れ替わっている。50年もすれば、社会的活動をしていた過半の人々は退場し、新しい人々が登場してくる。100年経てば、社会の成員はほとんど入れ替わっているのである。未来の世界を創るためには、このような公共建築に携わる新しい建築家を育てる社会システムが必要だと考える。

 

2005年、一人の構造技術者による不正行為が発覚し(耐震強度偽装事件)、社会問題となった。それ以降、日本では建築士全般の管理を厳しくするという方向となった。国は社会的資産を形成するために、堅実な仕事をする大手組織事務所に多くの仕事がいくような制度を設けている。同じ時期、「建築家が主宰する零細なアトリエは市場から排除したい」と公言した官僚さえ登場した。

 

建築家の槇文彦さんは、現在、建築家の職能が大きく変化していることを「軍隊と民兵」という言葉を使って表現している1)。巨大な組織設計事務という「軍隊」と、建築家の主宰する零細なアトリエという「民兵」が、ともに現在の社会のハードウエアをつくる戦線に参加しているというのである。軍隊は強大な戦力を持っているが、戦う兵士は思考しないので、制度の枠組みを超えることはない。そこでは制度の再生産を行っている。それに対して、民兵はその制度そのものと戦う、“思考する”人たちである。

 

現代の社会は経済活動を中心にした効率を求め、安全・安心という反動が選択される方向へと向かっている。しかし、社会はゆっくりと変化している。日本の人口は漸減し、早晩、成長拡大ではなく、定常型社会へと向かうだろう。新しい社会を実現する新しいハードウエアは、“思考する”建築家がつくるのだと思う。この公立刈田綜合病院は、建築家が新しい未来を提案できた幸せな建築なのだ。

 

引用文献

1)槇 文彦:変貌する建築家の生態,新建築,2017年10月号.

 

 

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ル・コルビュジエ

(Le Corbusier :1887~1965)

スイスに生まれ、フランスで活躍し、近代建築の礎を築いた20世紀を代表する建築家。2016年、彼が設計した国立西洋美術館本館がユネスコ世界文化遺産に登録され、話題になった。

耐震強度偽装事件

ある建築設計事務所の一級建築士が、地震などに対する安全性の計算を記した構造計算書を偽造していたことに始まる一連の事件。2005年に発覚し、世間を騒がせた。

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

©  Japanese Nursing Association Publishing Company

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