日赤病院における戦傷病者の看護のようす。戦時中は赤十字病院も軍の傷病兵を収容、治療を行った。(昭和前期、日本赤十字看護大学蔵)

病院船パシフィック丸での包帯交換。天井が低く、病床が所狭しと敷き詰められている。船酔いに悩まされながらの看護であった。

(年代不詳、大嶽康子氏旧蔵)

   

 

軍の指揮下での活動

 

ジュネーブ条約に加入する国々では、戦地においては赤十字の救護班は軍の命令に従い活動することになっていた。これは救護班の側からいえば安全に救護活動に取り組むためであり、軍隊の側からいえば危険な任務地で民間の組織と協力していくうえで必要不可欠なことであった。しかし日本では日露戦争以降、日赤と軍の相互主義はなし崩しとなり、徐々に軍の支配が強くなっていく。

 

日赤看護婦の身分は、陸軍においては軍属とされた。非戦闘員であり、攻撃してはならない対象ではあるが、軍の指揮下に入る際には宣誓をして軍属となり、命令違反があったときには陸軍刑法および懲罰令の適用を受けることになった。この身分規定はすでに日露戦争のときから存在したが、軍の日赤に対する統制が強まるなか、やがて救護員にとって軍の命令は絶対となった。

 

また日本では、ジュネーブ条約が示すような国際的な規準よりも、日本古来の伝統的な考え方のほうが優れていると考えられるようになった。戦陣訓の教え「生きて虜囚の辱めを受けず」は、力の限り戦って負けたら潔く死ぬことこそが日本人の美徳であると説いた。これはジュネーブ条約が捕虜の保護を訴えるのとは正反対の考えであった。結果として、敗戦時に歩いて撤退できない兵が手榴弾などで次々と自決する、あるいは連れて行けなくなった重症患者が味方に毒殺されるなどの極限状況が生みだされた。

 

日赤の看護婦にも、赤十字の人道博愛と報国恤兵(じゅっぺい:国に報いて兵を助けるという意味)の2つは縦糸と横糸のように織り合わされたものと教えられた。つまり、日赤の看護婦にさえも捕虜になってはいけないとの教えが徹底されたのである。ある婦長は、敵に囲まれて逃げる途中に狙撃され、捕虜にならないようにと班員である看護婦に自決を求め、自ら「天皇陛下万歳」と叫んで息絶えた。追い詰められたひめゆり学徒隊が、少ない数の手榴弾を囲んで自決を試みたのも、このような背景による。

 

 

看護婦の体験

 

この戦争で日本は無謀な戦いをし、看護婦は悲惨な体験をした。予想をはるかに上回る数の患者が押し寄せてくるなかで、彼女たちはわずかな医療材料を用いて看護を行った。

 

1,000人の患者を4人の看護婦が担当した、300人の患者に検温器が2本、1病棟に注射器が2~3本しかなかったという記述もある。撤退する途中、歩けなくなった兵に「助けて」「連れてって」と訴えられ、ただ「がんばりなさい」と励ますしかできなかった場面もあった。自らも爆撃を受けて負傷し、感染症と飢えに悩まされた。

 

戦争終結直前のソ連軍の侵攻により、命や暴力の危険にさらされ、その後も中国の内戦に巻き込まれ、長く日本に帰れなかった看護婦もいる。日赤の看護婦は、日中戦争から太平洋戦争終結までに1,120名が殉職した。その他の看護婦にどれほどの犠牲者があったのか、正確な数はわからない。

 

この戦争では、看護婦一人の努力ではとうてい太刀打ちできないような状況が生じた。あふれかえる戦傷病者を前にして、療養設備、医療材料、人員の何一つ整っていない状況に置かれた。助けられたはずの命、必要のなかった苦痛がたくさんあった。そのような場に看護婦として立ち会うことがいかに悲痛な体験であったかと思う。

 

 

戦争と看護をめぐる論点

 

戦争と看護をめぐる論点はいくつかある。1つは看護職としてどのように戦争に向き合うかである。

 

インタビューのなかで元・救護看護婦は皆、必ず「二度と戦争をしてはならない」と語った。まったくそのとおりである。戦争はいったん始まってしまうと後戻りが難しく、人間の自由や権利をすべて奪ってしまう。平和なときの思いや努力は一切通用しない。最も重要なのは戦争をしないことであり、回避するための最大限の努力である。

 

とはいえ、それでも戦争が起こってしまったら、看護職として目の前にいる傷ついた人に手を差し伸べずにはいられないのではないか。そのとき、さまざまな政治の力が働く場で、看護職の活動を人道的たらしめるものは何か。それを統制する力を、私たちはもっているか。

 

事実、赤十字は戦争を前提とした組織であったし、今もそうである。人間同士が殺し合うという最も非人間的な状況における人間性、すなわち敵であっても傷ついた者は助けるべきだという人間性の存在に賭けている。しかしその理想の実現は容易ではない。先の戦争が示すように、交戦国の間で優位に立とうとして条約違反が行われることもあるし、人道活動そのものが戦争の仕組みに位置づけられるなかで純然たるものではなくなり、気づいてみれば、兵士が安心して戦うための後方支援、ついには戦争の歯車となってしまうこともある。

 

そしてもう一つの論点は、先の戦争での看護の体験、その教訓をどのようにして未来に引き継ぐかである。

 

終戦から70年あまりの年月が過ぎ、戦争は遠い存在となった。現代に生きる私たちには、戦時に言論が統制され、国家のために戦争に協力を求められる事態をリアルに想像するのは難しい。筆者自身もそうであったが、敵の攻撃にさらされ命の危険を感じた、病床数をはるかに超える大勢の患者が押し寄せ、物資が極度に不足するなかでの看護を行ったという看護婦の体験をイメージすることが難しかった。ましてや玉砕戦場で自決を遂げた、重症患者を毒殺したなどは、当初は事実として受けとめるのさえ難しいものだった。

 

冒頭で述べたように、戦争を体験した先輩が高齢となり、その体験についての語りを直接聞ける機会が少なくなったことの影響は大きい。体験者の語りを通じて私たちが得ていたものは、おそらく起こった事実についての知識だけではなく、かれらの怒りや悲しみ、苦しみであり、平和への強い願いであった。それらを損なわないように、語りを未来に引き継ぎ、伝承していくことができるのだろうか。それが今、課題となっている。

(おわり)

 

   

 

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