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 特集:ナイチンゲールの越境 ──[戦争] クリミア戦争とトルストイ 作家という残酷な生き物 text by 金沢 美知子

── 朝暁はいましもサプン山の上に拡がる天際を染め始め、暗碧の海面はすでに夜の薄明を脱ぎ捨て、朗らかな日の光と戯れようと、最初の一条(ひとすじ)を待ち構えている。入り江の方からは冷気と霧が漂ってくる。

 

これはロシアを代表する作家、レフ・トルストイの作品『12月のセヴァストーポリ』の冒頭に掲げられた文章で、彼が祖国ロシアとオスマン帝国の戦闘に参加するために、クリミア半島、セヴァストーポリの地に足を踏み入れた際の最初の印象をもとに書かれたものです。冬の朝方の移りゆく時間を捉え、繊細なタッチで描きあげたこの一幅の美しい絵に、わたしたち読者はつい見とれてしまうでしょう。もしその後に続く「雪はない―全てが黒々としていて、刺すような朝の寒気は顔を襲い、足もとできしむ。遠い海鳴りだけが朝の静寂を破り、それを響き渡るセヴァストーポリの砲声が時おり遮っている」という描写がなかったら、戦場を舞台とする凄惨な物語の始まりであることに気づかないかもしれません。

 

トルストイは軍人としてクリミア戦争の激戦地セヴァストーポリに身を置きながらも、一瞬たりとも作家としてのまなざしを捨て去ることができませんでした。作家とは残酷な生きものです。彼の観察力と表現力は戦場の悲惨な現実を美しく雄大な自然と同じ1つの空間の中に捉えることでいっそうの輝きを増し、そこに繰り拡げられる「生と死のドラマ」を詩情豊かな名編に仕上げたのでした。

 

ナイチンゲールが看護婦として国際的な一歩を踏み出したこの戦争で、トルストイはなにを見つめ、それをどのように表現したのでしょうか。彼が体験した戦争の実態をつぶさに知ることは無理でしょうが、それでも想像力を逞しくして、150年余り前のその時に彼の視線の先にあったものをいくつかの角度からとりあげ、セヴァストーポリの物語の中に表れたトルストイの文学世界について考えてみたいと思います。

 

 

 

『セワ"ストーポリ』(トルストイ作、中村白葉訳、岩波文庫[2017年、復刻版])

クリミア戦争に従軍したトルストイが、激戦地セヴァストーポリでの見聞をもとに書き上げた3つの物語を収録。

 

 

トルストイにとってのクリミア戦争

 

19世紀半ばに勃発したクリミア戦争(1853-56)はロシアとオスマン帝国(トルコ)の間に繰り広げられた戦いであるが、オスマン帝国の背後にはナポレオン3世治下のフランスとパーマストン(最初内相、後に首相として)率いるイギリスが控えており、サルデーニャ王国(イタリア)や戦争終結期にはオーストリアも参戦した。ヨーロッパ東端のロシアと西欧諸国の覇権争いという面を持ち、局地戦ながら、19世紀ヨーロッパの戦争を代表するもののひとつであった。また戦争の発端としては、カトリック対正教という宗教上の対立も挙げられるが、背景には「不凍港の獲得」というロシアの積年の夢があり、夢を実現するプロセスで起こるべくして起こったできごとでもあった。

 

このクリミア戦争自体は19世紀半ば、ロマノフ朝のニコライ1世の時代に勃発したものだが、実は、ロシアの歴史においてトルコとの戦争は数世紀にわたって繰り返されてきたできごとだった。基本的には両国が各々の主権の拡張を目指したところに発生した衝突であるが、西欧諸国に加え、時にはロシアがやはり抗争を繰り返していたスウェーデンやポーランドも巻き込んでの、多国家間の複雑な力学が働いた戦争であった。特に18世紀初めにピョートル1世が統治者となって富国強兵政策を前面に押し出して以来、ロシアは積極的に領土拡大を目指し、周辺地域との戦争勃発の頻度は高まっていた。ロシア政府にとって、1年を通して利用できる不凍結の港を求めての南方への侵略はやむを得ざる軍事上の課題であり、トルコとの衝突は不可避だったとも言える。ロシア史においては18世紀後半、エカチェリーナ2世時代の対トルコ戦も重要であり、1853-56年の戦役はこれら一連の露土戦争のひとつであった★1

 

レフ・トルストイは1828年、モスクワの南方に位置するトゥーラ県、ヤースヤナ・ポリャーナの地で伝統ある伯爵家の4男として生まれた。1830年に母、37年に父と死別したため、親族の保護のもとで幼少期を過ごし、1847年には生まれ故郷ヤースナヤ・ポリャーナの広大な領地を相続した。青年期の彼は領地経営に手を出したり、モスクワ、ペテルブルグなどの社交界で遊興に耽ったりと、典型的な貴族生活を送っていた。当時のロシアの貴族は祖国への奉仕のために若い時期に軍人や文官として勤務し、その後退職して、領地経営と社交に残りの人生を費やすことが多かった。トルストイも一念発起、1851年に現地民との戦闘を繰り返していたコーカサスに赴き、翌年にはそこに駐屯していた軍隊に入隊した。その後54年末には将校としてクリミア戦争の真っ直中にあったセヴァストーポリに配属され、壮絶な戦闘を体験したが、1855年末には退役し、領地ヤースナヤ・ポリャーナの経営に本腰を入れることになる。

 

ここで興味深いのは、トルストイの作家としての人生が軍人としての生活とほぼ並行して始まったことである。トルストイは1851年から52年にかけて、コーカサスで最初の軍務に就いている間に処女作『幼年時代』を執筆し、翌年、雑誌『同時代人』に発表して、文壇デビューを果たした。これは彼自身の幼年期を題材にした自伝的な作品で、すでに芸術的な成熟を感じさせ、彼の作家としての輝かしい将来を約束するものであった。ロシア文学を代表するもうひとりの巨匠、ドストエフスキーは一足先にデビューし、1852年当時はちょうど思想犯としてシベリアで刑に服していたが2雑誌に掲載された『幼年時代』を読み、その優れた才能を一目で見抜いたという。

 

やがてトルストイはデビュー作に続いて自伝三部作の1つ『少年時代』に着手し、一方では『襲撃』『コサック』なども手がけ、1854年には新たな赴任地で最初のセヴァストーポリ物語を書いた。本稿冒頭に掲げたのはこの最初の物語『12月のセヴァストーポリ』の幕開けの場面である。第2の物語『5月のセヴァストーポリ』(1855年、検閲による改変付きで発表)、第3の物語『8月のセヴァストーポリ』(1856年発表)も相次いで執筆され、時をおかずに発表された。

 

このように、トルストイの初期の自伝的小説『幼年時代』『少年時代』『青年時代』は、『襲撃』『コサック』やセヴァストーポリ3作など、戦地を舞台とした作品と前後する形で構想され、執筆され、発表されたのである。万事につけて比較されるドストエフスキーとトルストイであるが、前者は作家デビュー前に当時の首都ペテルブルグで役所勤務の生活を送っており、初期作品の多くが都市の中、下層社会の人間絵巻で、とりわけ下級官吏を主人公に据えた物語で注目されたのに対し、後者トルストイの初期の執筆活動は日々の軍隊勤務の中で行われ、軍隊での生活や人間観察が作品に反映されていた。生と死を分ける戦場の時間と空間がトルストイの創作に影響を与えないはずはなかった。

 

 

        

 

 

金沢 美知子  かなざわ・みちこ

東京大学名誉教授、日本トルストイ協会 副会長

東京大学卒業、東京大学大学院博士課程満期退学。放送大学助教授、東京大学大学院助教授を経て、1996年教授、2016年退職。専門はロシア文学・比較文学。主な仕事に『可愛い料理女、18世紀ロシア小説集』(彩流社)、『18世紀ロシア文学の諸相』(編著・水声社)、『ロシア語Ⅰ』『ロシア語Ⅱ』『ロシア文学』(共著・放送大学)、『新編バベルの図書館 第5巻』(共訳・国書刊行会)など。文京アカデミア講座(2017年度後期:ロシア文学を読む―作家と革命をめぐって)、朝日カルチャーセンター(新宿)講座(2018年:ラスコーリニコフの悲劇―ドストエフスキー『罪と罰』を再読する)。

トルストイとナイチンゲール、交差する二つの人生。

レフ・トルスト(Lev Nikolayevich Tolstoyドストエフスキーと並んで広く世界で愛読されてきた、19世紀ロシアの作家。彼は単に作品が愛されただけでなく、その人生観、生き方が賞讃され、平和主義、人道主義の思想や、自給自足、晴耕雨読などの簡素な生活様式が深い共感を呼んだ。日本は世界の中でもトルストイ受容が盛んな国であり、翻訳や研究の数でも他に引けをとらず、徳冨蘆花、武者小路実篤、有島武郎ほか、トルストイの世界観に影響を受ける人、生き方に追随する人を数多く輩出してきた。近年、トルストイ理解は多様化の様相を見せているが、彼の文学は初期から晩年にいたるまで、いずれもが物語の面白さを堪能させてくれるものであり、そのストーリー・テラーとしての技倆は今日なお世界中で高い評価を得ている。

(写真:クリミア戦争当時のトルストイとナイチンゲール)

★1:ロシア(帝国および帝国となる以前)とトルコ(オスマン帝国)の10回を超える戦争はしばしば露土戦争と総称される。各戦争は主戦地に名前を借りた通称で代表される場合もあり、1853-56年の「クリミア戦争」もそのひとつである。露土戦争は18世紀には大きなものだけでも4回を数え、そのうち2回はエカチェリーナ2世(1762-96)の時代に起きた。多くの場合、ロシアが勝利したが、19世紀になるとロシアの軍事的後進性が目立つようになり、産業革命を経て先進技術を獲得していたイギリス、フランスと対決することになったクリミア戦争では、すでに開始時にロシアの敗北が予想されていた。

★2:フョードル・ドストエフスキーはデビュー後しばらくして、ペトラシェフスキー主宰のユートピア社会主義思想を掲げる文学サークルに出入りするようになった。1849年に官憲がこのサークルに踏み込み、ドストエフスキーも逮捕される。銃殺刑が執行直前に特赦によって減刑となり(すべて当時の皇帝ニコライ1世の仕組んだ芝居だった)、逮捕者は思想犯としてシベリアに送られることになった。ドストエフスキーも1854年まではシベリアで徒刑囚として服役しており、この時期にトルストイは文壇デビューした。

(写真:クリミア戦争当時のトルストイとナイチンゲール)

 

        

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会 © Japanese Nursing Association Publishing Company

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