月刊「地域リハビリテーション」(三輪書店)の連載「みんなでケアを考える!─哲学者、文化人類学者、ケア研究者・従事者が一緒に考えるこれからの高齢者ケア」は、2012年9月号〜2013年3月号まで連載された。
哲学を通して得た問題意識
備酒:現象学の浜渦辰二さんや死生学の竹之内裕文さんらといっしょに、3年間科研費で北欧ケアに関する研究をやったんですが、最初の1年は「哲学言うてもなんやお経みたいやなぁ」って思っとったんです。でも、2年目くらいから「いや、彼らが言ってることって俺たちの仕事に不可欠とちがうかな」と思うようになったんですよ。今ではすっかり惚れ込んでいて、うちの大学で4年かけて理学療法士を育てるんなら、そのうち最初の2年間は現象学と死生学と倫理学だけやったらいいと思うくらいの心境です。まじめに。
吉田:わかるような気もしますが……。
備酒:その後「地域リハビリテーション」誌(三輪書店)で「みんなでケアを考える! ──哲学者、文化人類学者、ケア研究者・従事者が一緒に考えるこれからの高齢者ケア」という連載をやらせてもらったんですけど、最終回に掲載された浜渦さんの文章をちょっと抜粋しますね。「ケアする人にとって、ケアされる人は、まったく異なる身体をもち、まったく異なる時間と空間のなかで、まったく異なる歴史と背景と目的のなかで生きている他者なのである。逆に、ケアされる人にとっても、ケアする人は同様に他者なのである」これをいろんな講演会なんかで紹介した後、ケア従事者に向かって「みなさん、ここまで“他者”というものを厳密に考えたことありますか」って問いかけると、みんな「ない」って言うんですよ。ぼくもなかったですしね。例えば僕らがよく使う「私の患者さん」って別に間違った言葉とまでは言いませんが、もし他者というものを今のように厳密に考えていたら「所有物かよ」って気になりますよね。
もう一つ、浜渦さんの「人生を登山に喩えてみれば、ケアする人は山頂に向かって登っている世代であるのに対し、ケアされる人はもう山頂から下山している世代である。登っている人に見える風景と下山している人に見える風景はまったく異なる。ケアとは、言わば両者がすれ違う場なのである。そのなかで、お互いに異なる世界に住んでいるということをまずは認め合うことが、互いのコミュニケーションのために必要なのである」という文章を読んで、「おお、ほんまや〜」と僕は打ちのめされたわけです。それで僕は「さて私たちは、ケアを提供するに際して「他者」に関っているということをどれほど注意深く意識しているだろうか。先日、ある病院でケースカンファレンスに参加した。47歳の女性(表面的になぞるだけでも、女性であり、妻であり、母でありという人)の退院時期を検討する話の中で、担当者たちは“外泊を何度か行って様子を見たい”と口をそろえた。しかし、この“外泊”は彼女の立場から見れば“家に帰る”であって、入院していることが「外泊」である。彼女は既に180日外泊し、カンファレンスではさらに180日外泊を継続させることを、“そうとは意識せず”に議論している訳である」と書きました。
吉田:そういえば、看護師も「試験外泊」と言ってたりします。最近は「退院練習」とか言うかも。
備酒:これには後日談があって、僕らリハビリの仲間にこのような説明をせずに「外泊練習ってヘンだよなあ」って言ってみたんです。そしたら全員が「何が?」って言いました。傷を「治す」時っていうのは、ある意味で相手の世界を意識せずともよいのかもしれない。われわれ理学療法士の世界はそいう医学モデルをベースに教育を受けてきたから、このような問題意識をなかなか持てないんですね。
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