日本の近代病院建築(尹 世遠)
Part1 近代病院建築事始め──新しい内容と形式
第2話……標準設計とモデル病院
[陸軍病院と海軍病院]
建物の配置
次に、建物の具体的な配置と構成について見てみましょう。
この部分は文章だけだとわかりにくいので図がほしいところですが、残念ながら『陸軍衛生制度史』はこの図も省略してしまいました。しかし、熊本鎮台病院の設立当初の様子を表していると思われる「熊本衛戍病院各室図全」という資料が残っています7)。これは連載第1話の中の「長崎養生所」のところでも参照した新谷肇一氏の論文から教えられたもので、図2は新谷氏の論文に掲載されていた図をトレースしたものです。先ほど記した表1の下段に示したのは、この図面から数え上げた病床数です。
新谷氏によれば、原図「熊本衛戍病院各室図全」は国立熊本病院(現 国立病院機構 熊本医療センター)の前田明節氏が発見、保管していたものとのことです。新谷氏はこれを「熊本鎮台病院の図」と呼んでいますので、私たちもそう呼ぶことにしましょう。
まずは配置から。「一般ノ解」にはこんなふうに書かれています。図2を見ながら読んでいただくと、理解しやすいと思います。
図2 熊本鎮台病院(国立熊本病院の前田明節氏が発見、保管していた「熊本衛戍病院各室図全」より、新谷肇一氏が作成した図7)をトレースしたもの)
方位ハ斜線或ハ南北線ニ病舎ヲ駢列[へんれつ]スルヲ要ス。周囲ニハ柵壁ヲ作リ、前面及ヒ後面ノ中央ニ門各一個ヲ設ク。病院本舎ハ前面ノ柵ニ平行シ、其入口ハ前門ノ線ニ置ケリ。本舎ノ後面ニ廊ヲ設ケ、各病舎及ヒ附属舎ニ接続セリ。病舎ハ本舎ニ準ヒ其両翼ニ相対シテ駢列シ、舎ノ周囲ニ廊ヲ設ク。附属舎ハ本舎ト相対シテ平行線ニ置キ、前面ニ廊ヲ設ケタリ。之ヲ要スルニ各舎ヲ四面ニ配列シ、廻廊ヲ設ケテ以テ通行ニ便ナラシメ、中間ニ庭ヲ設ク。而シテ病舎ハ各相隔ルコト八間ニシテ、大抵舎ノ高度ニ二倍スルヲ要ス。其中間モ亦庭トシリ。後面ノ柵ニ接シテ癲狂病舎及ヒ伝染病舎ヲ置キ、皆各病舎ニ遠隔セシム。5)
読むのはなかなか面倒ですが、一つずつ箇条書きに直してみましょう。
いかがですか。熊本鎮台病院の図は確かに「一般ノ解」に書かれている配置法に則っていることがわかりますね。病院の周囲にめぐらす柵は、敷地の形状に合わせるため建物(本舎)と平行になっていませんが、建物の配置は「一般ノ解」の記述通りです。
ポイントは、本社・病舎・附属舎からなる建物群を、中庭を囲むように分散配置すること、それらを渡り廊下でつなぐこと、病棟同士は高さの2倍の間隔をあけて並べること、それぞれの病棟の周囲にも廊下をぐるりと回すことです(以下では混乱を避けるため、建物同士をつなぐ渡り廊下を「回廊」、それぞれの建物の周囲にめぐらす廊下を「周廊」と呼ぶことにします)。
建物の構成
続いて「一般ノ解」は、それぞれの建物の構成法について述べます。建物ごとに番号が振られ、第1号から第16号までの建物があります。「第1号 病院本舎」から「第8号 附属舎」までの8棟の建物は回廊でつながって一体の建物群となっており、「第9号 癲狂病舎」「第10号 伝染病舎」などは本体から分離され、別棟となっています。
「第1号 病院本舎」は外来診療部門と管理部門に該当する建物です。診察室、医官室、研究室、当直医官室、薬室、寝室のほか、軍吏室や応接所、貯品所などが設けられます。
「第2号 士官病舎」以下、「第7号 内科並眼科病舎」までの6つの建物は病棟です。病棟には以下の3つを共通に設けます。
1.の廊下は先ほど「周廊」と呼ぶことにしたもので、原文では「外廊」とあるように、建物の中ではなく外周部にめぐらす廊下です。通路の機能に加えて、患者の散歩に使うことも想定していたことがわかります。
2.の「換気」とした部分は、実際には「腐敗気ヲシテ散去」とあったのを言い換えたものです。「腐敗気」は先に見た「病室図解」にも使われていた表現ですね。患者から発生する(とされていた)悪い空気を取り除くことが、病棟のつくり方の大事なポイントだと考えられていたことがわかります。そうした換気を効果的に行うため、「病室図解」では窓の数と大きさについて規定していました。「一般ノ解」では屋根に換気小屋(「厩ノ如キ小屋」)を設け、窓の下に空気抜けを設けるようにしています。要するに排気口と吸気口で、自然換気システム(送風機などの機械を使わずに行う換気システム)になるはずです。
3.の洗面所と便所は、患者だけでなく本舎の職員も使うことが想定されています。
最初の病棟である「第2号 士官病舎」には6室を設けます。図2を見ると、病室ごとに4床あるように見えますが、実はこの6室はすべて個室です。「一般ノ解」には「一個ノ貯品所ヲ造リ患者一名看護者二名ヲ容ル」とあり、病床は1床のみで、壁際の2床は看護者用のベッド、病室の隅にくっついているものはベッドではなく、「一個ノ貯品所」(収納)なのです。1対2看護とでも言ったらよいのでしょうか、現在からみると、士官に対しては随分と手厚い体制です。
「第3号 外科病舎」には、病室のほかに回廊に面して手術室を設けます。図2では21と番号が振られている部屋です。病室は「通常外科患者二十名ヲ入ル」多床室と「重症患者ノ室」を4室設けるとあり、24床の病棟です。20床の多床室は2室に分けるとあり、「病室図解」で40床室を2分するとしたのと同じ説明の仕方です。図2では8床と12床とに分けられています。重症患者室は士官病舎のときと同様にやはり個室で、それぞれ「患者及ヒ看護者各一名」が入ることになっています。
「第4号 内科病舎」には、8室の「一等重症患者室」(個室)と、20床の「二等重症患者室」1室を設け、合計28床です。20人が入る二等重症患者室は二つに分けるのですが、図2ではここでも8床室と12床室とに分けられています。個室へは周廊から直接ではなく、引き込みの廊下(「舎ヲ縦断セル廊」)からアクセスします。
「第5号 外科並梅毒病舎」「第6号 内科病舎」「第7号 内科並眼科病舎」は同じ形式で、8床4室から構成された32床の病棟です。中央の二つの病室には、やはり周廊からではなく、病棟の中央を横断する引き込み廊下からアクセスするようになっています。
「第8号 附属舎」には、厨房(図2の図中番号20番)、浴室(15、16番)、衣服寝具貯蔵所(13番)を設ける、とあります。浴室は職員用と患者用に分けるのではなく、「士官患者及ヒ当直医官ノ浴室」と「下士官以下患者ノ浴室」とに分けられているのがおもしろいところです。
回廊で連絡されているのはここまでで、「第9号 癲狂病舎」と「第10号 伝染病舎」は別棟とし、連絡しません。「第9号 癲狂病舎」は「隔壁ヲ以テ区界」された「患者室八個」を、「第10号 伝染病舎」には通常患者6床室を2室と重症患者室を4室設けるとあります。第11号から第15号までは説明がなく、第16号は死体を安置する「屍舎」です。
名古屋衛戍病院
以上が「一般ノ解」に示された陸軍病院の建築法です。すでにご確認いただいた通り、熊本鎮台病院は「一般ノ解」に則って建設されたことが確実です。
「一般ノ解」制定の3年後の1878(明治11)年に完成した名古屋鎮台病院も「一般ノ解」に即して建設されたと考えられます。図3は名古屋衛戍病院が戦後、国立病院に移管されたときの配置図です8)。中央の8棟の建物の配置および平面構成が、まったく同じではないですが、熊本鎮台病院とよく似ていることがわかります。病院本舎の一部と外科病舎部分が博物館明治村に移築されていますので、今でも当時の姿をある程度は見ることができます9)。
図3 名古屋衛戍病院(建物が国立名古屋病院に移管された時期の配置図。回廊は戦中に一度取り壊されたため描かれていない。上が北。〈博物館明治村編:明治村建造物移築工事報告書 第七集, 名古屋衛戍病院, 1992. 掲載の図をトレース〉)
「一般ノ解」における病室と廊下の関係
陸軍病院に関するお話はこれで終わりですが、最後に少し考えておきたいことがあります。熊本鎮台病院の第2号病舎から第7号病舎までのどの病棟でもそうですが、病室には周廊の長手方向から直接入ることはできず、妻側から入るようになっています。複数の病室が連なっていて周廊の妻側から入れない場合には、わざわざ引き込みの廊下をつくって入り口を設けています。これはどうしてでしょうか。
「一般ノ解」にはその理由が書かれていないので、推測するしかありません。
まず考えられるのは、窓と病床の位置関係です。病床は壁の窓がある面に垂直に並べることにしていました★4。周廊の長手方向から病室に入るためには、その部分の窓を入り口に替えなければならず、窓およびそこに配置できたはずのベッドの数が減ってしまうことになります。つまり、病床を窓面に垂直に並べる配置を守ろうとした場合、入り口は長手方向側ではなく妻側に設けたほうが、窓を減らす必要がなく、ベッドもより多く配置できるはずです。また、窓は壁の両側に対面して設けたほうが換気によく、その原則を守ることを優先した可能性もあります。
病室と廊下の関係は、この連載で繰り返し検討していく課題です。その理論的な議論については次回以降お話しする予定ですが、ここでは、病室と廊下のもう一つの特異な関係にある病院──そもそも病棟内に廊下がない病院──についてお話ししましょう。東京慈恵医院と海軍病院がそれです。
高木兼寛★5とセント・トーマス病院
皆さんは東京慈恵医院と海軍病院を「と」でつなぐことを不思議に思われるかもしれません。東京慈恵医院は言うまでもなく、現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身。その創立者である高木兼寛は、海軍軍医でもありました。むしろ、海軍軍医であった高木兼寛が東京慈恵医院を設立した、と言ったほうが正確かもしれません。脚気をめぐる論争はよく知られているので、陸軍軍医としての森鴎外(林太郎)の論敵として覚えている方もおられると思います。
第1話では、初代陸軍軍医総監を務めた松本 順に登場していただきました。次回は同じく陸軍軍医であった森 林太郎に活躍してもらう予定です。海軍では高木兼寛がキーパーソンです。
陸軍では、医学に関してはフランスからドイツに早々と舵を切り、やがて森ら陸軍医たちもドイツに留学しました。海軍ではイギリス医学の導入を決め、1873(明治6)年に英国医ウィリアム・アンダーソンを海軍軍医学校の教師として雇い入れました10)。当時、海軍軍医となっていた高木は、アンダーソンの母校であるイギリスはロンドンのセント・トーマス病院附属の医学校に留学しました。私たちにとって重要なのは、この病院がナイチンゲール病棟から構成されていたことと、その附属医学校が臨床を重視していたことです。
高木の留学が始まったのは1875(明治8)年。セント・トーマス病院は1871年に移転新築されたばかりでしたから、高木は竣工して4年しか経っていない、当時としては最新の──そして最高の──病院で臨床を学んだことになります。
病院の移転新築計画は1858年頃から始まり、当時すでに病院設計に関する専門家としての地位を確立していたナイチンゲールの指揮の下に建設されました11)。図4はセント・トーマス病院の病棟配置・平面図、図5は20世紀初頭の病棟内部の写真です。やはりナイチンゲールの指導の下に建設されたハーバート病院★6とともに、代表的なナイチンゲール病棟の病院です。
図4 セント・トーマス病院の病棟配置(上)・単位病棟平面図(下)(上=Thomson, J.D., Goldin, G. : The Hospital : A Social and Architectural History, Yale University Press, 1975をもとに作成/下=長澤 泰:ナイチンゲール病棟とその評価, 英国医療施設研究 (2) , 厚生省病院管理研究所研究報告シリーズ No.7905, 1979年5月を改変)
図5 20世紀初頭のセント・トーマス病院の病棟内部(『聖トマス病院ナイチンゲール看護婦養成学校のあゆみ』日本看護協会出版会, 1973年, 絶版より)
図4と図5を見ると、ナイチンゲール病棟の平面構成上の特徴がよくわかります。以下、箇条書きしてみます。
<ナイチンゲール病棟の平面構成上の特徴>
最も重要な特徴は、病室を30床程度の大病室(オープンワード)にして小部屋に区切らないことと、オープンワード周りに廊下を設けないことで、直接外気に面する窓を向かい合う壁2面に設けていることです。ナイチンゲール病棟については、長澤 泰先生のコラム「建築家が読む『病院覚え書』」に詳しく紹介されていますので、ぜひご参照いただきたいと思います。
次に、セント・トーマス病院の特徴として、以下の4点を指摘しておきます11)。いずれも後の高木の活動に関連するものです。
<セント・トーマス病院の特徴>
このような特徴をもつ病院およびその附属医学校で学んだ高木は、大変優秀な成績で学業を終え、1880(明治13)年に帰国、海軍病院長に就任します11)。