「鰐之図
紅毛雑話(1787年より

第0話

話を始める前に

この連載では「日本の近代病院建築」についてお話ししていきます。本格的に始める前に、まず「病院」という言葉について改めて少し考えてみたいと思います。その後、この連載でお話しするテーマと対象範囲、全体の構成について述べます。また、筆者についても簡単に紹介させていただくことにします。

 

「病院」は翻訳語

 

「病院」を『広辞苑1)で引いてみると、次のように書いてあります。

 

中国でつくられた訳語。江戸後期から日本でも使われた。)病人を診察・治療する施設。医療法では20人以上の入院設備を備えるものをいう。

 

※ 下線は筆者(以下同)。

 

この連載では「病院」は訳語だったということが重要なのですが、これについては後で説明することにします。

 

日本では「江戸後期から」使われたとありますが、森島中良★1という幕末の蘭学者が著し『紅毛雑話2)2(1787/天明7年で用いられたのが最初だと言われています3「紅毛」は、江戸時代にオランダ人あるいは欧米人を指して称した言葉ですから『紅毛雑話』は欧米人に関するいろいろなことを記した書物という意味ですね。

 

実際に使われた文章を読んでみましょう。

 

同国[=ヨーロッパの国]の中に「ガストホイス」という府あり。明人、病院と訳す。この府は甚だ広大に構えたり。何故なれば、外国より来たる所の使客ならびに国中の病者は、貴賤なくここに居させる。医師、看病人、臥具、病架にいたるまで、備え置いて欠くことなし2)

 

(引用文は適宜句読点を追加し、現代日本語に替えてある。[ ]は筆者による補足。以下同)

 

「ガストホイス」は、おそらく病院を意味するオランダ語「gasthuis」のことです「府は人やものが集まるとこ(建物。外国からの使客云々は病院という(guesthouse, hospitalの語源にかかわるのですがこれは飛ばしましょう。

 

森島によると、病院とは、患者を入院させる大きな施設で、医師と看病人がいて、寝具と患者用のベッドが備えられているところ、と説明されています。これは私たちが知っている病院そのものですね。

 

重要なのは「病院」が訳語だということです。中国では「病院」という訳語を新たにつくる必要があり、日本では「病院」という訳語を紹介する必要があった。新しい訳語をわざわざつくり、それを紹介するわけですから、それ以前には病院という施設が存在しなかったことになります。つまり病院は輸入された概念だったのです。

 

明治維新前に「病院」を紹介した事例をもう一つ見てみましょう。

 

福沢諭吉★3は欧米への視察に参加してから『西洋事情44を刊行しました(1866/慶応2年)。その「初編」に「およそ文明の政治と称するもの」の要訣(大事な要素)を6か条掲げていますが、その一つとして「人民[の]飢寒の患い[を]なからしむること。即ち病院、貧院等を設け貧民を救うを云う」と書いています。貧しい人々のために病院や救貧院を設けることが「文明の政治」の要素として掲げられているのです。

 

そして病院については、次のように説明しています。

 

病院は貧人の病て医薬を得ざる者のために設けるものなり。政府より建てるものあり、私[的]に会社を結びて建てるものあり。……また、病院に入る者も、極貧の者は全く費を出さざれども、やや産ある者は貧富に応じて医療の費を払う。各国の首府、都会に病院あらざるところなし4)

 

福沢は病院を西洋の事情として、さらに「文明の政治」の一要素として説明しています。もちろんこれは、当時の日本には病院がなかった(普及していなかった)ことを前提とした説明になります。

 

連載のテーマ

 

江戸時代後期に「病院」という言葉が紹介されました。その約80年後に、福沢は「文明の政治」の大事な要素の一つとして病院を取り上げました。後で紹介する長崎の養生所を除けば、当時の日本には近代の西洋医学をベースにした病院はほとんどありませんでした。本格的に病院が建設されるようになるのは、明治維新後のことです。

 

実際の病院を目にすることがなければ、それがどんな建物かを具体的に知ることは難しいはずです。しかし、1877(明治10)年までには150を超える病院が設立され、1881(明治14)年には500を超える病院が設立されるようになりました。だとすると、明治期の日本人はいったいどうやって病院を建設したのでしょうか。どのように考えて病院という建物を計画したのでしょうか。

 

この連載では、病院という新しいタイプの建物を、近代の日本人がどのように計画し建設したのかを説明していきます。特に注目するのは、病院建築を計画する際に重視された課題(論点)です。例えば、現在の私たちが病院建築を計画する際に重視する課題は、患者の療養環境の向上や感染防止などの安全性、看護のしやすさや効率的な動線、地震や火災などに対する安全性や機能確保、変化への対応のしやすさなどです。

 

では、病院が初めて本格的に建設されようとした時代に重視された課題は何だったか、それはどのように変化していったのか、そうした課題の設定や変化に影響を与えたのはどんなことだったのか──こうしたことを、これからお話ししてみようと思います。

 

連載の対象範囲

 

連載のタイトルを「日本の近代病院建築」としましたが、ここで言う「近代」は、明治維新の少し前から1940(昭和15)年頃までの時期を指すことにします。出発点を明治維新の少し前とするのは、日本の最初の西洋式病院とされる長崎養生所が建設されたのが1861(文久1)年だからです。終わりを1940(昭和15)年頃までとするのは、戦後間もないころ(1950/昭和25年)に、その後の病院建築の方向性を示したと言われる「総合病院のモデルプラン」が作成されたからです。

 

病院の建築計画の分野では、「総合病院のモデルプラン」を現代病院建築計画の始まりとみなしています。ですから、「総合病院のモデルプラン」以降は「近代病院建築」ではなく「現代の病院建築」として取り扱うべきテーマになります。「総合病院のモデルプラン」が具体的にどんなものだったかについては、連載の最後にお話しすることにします。

 

 

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ゆん・せうぉん

鹿島建設株式会社営業本部医療福祉推進部で病院建築の企画や事業計画の立案を担当。1973年韓国ソウル生まれ。高校卒業後に来日し、1年間日本語を勉強した後、東京大学に入学。兵役のために休学した3年間を挟んで2007年に博士課程修了。鹿島建設に入社し、建築設計本部、東京建築支店を経て現職。入社後のすべての期間において病院建築に携わる。博士(工学)、医業経営コンサルタント。

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教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

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