しかし、患者が「ペインスケールは聞くな」と言い、定期的に内服していた薬すら飲もうとしなくなってしまったことで、看護師の患者への「かかわり方」「態度」は変わっていきます。「ほっとくわけにはいかない」と思ったのは、すでに「患者さんが…経験している」「痛み」そのものが徐々に見えてきていたからでしょうが、看護師はそのことによって、「慎重に表情や動きを見て声をかけるタイミングを見計ら」うようになっていきました。

 

患者の表情や動きを慎重に見ようとするかかわり方、態度になって、患者の痛みの見え方――つまり看護師にとっての患者の痛みの「現象」――は変化し、それに応じて患者の応答のしかたも変わってきます。事例ではその事情が次のように書かれています。

 

しばらくの後、改めて病室を訪れて声をかけてみました。その際、患者さんは体を起こそうとするのですが、うまく起き上がれません。眉間に皺が寄せられたとても痛そうな顔を見て、看護師は咄嗟に患者さんの背を支えて、「痛みますか?」「お薬飲みましょうか?」と尋ね、定時で飲んでいる薬と痛みがあったときの薬の違いを説明し、後者を勧めました。そのとき、患者さんは「ああ飲む」と応じたと言います。

 

もはや明らかですね。看護師は患者に声をかけますが、もはやペインスケールで数値化できるようなものとしての痛みを捉えようとしているのではなく、起き上がろうとしても眉間に皺を寄せてうまく起き上がれない患者の姿に、患者が経験している痛みそのもの、患者によって生きられている痛みそのものを、「とても痛そう」な痛みとして直接的に見てとっています。

 

そして、患者の痛みが痛みそのものとして見え、ありのままに経験されたとき、看護師は咄嗟に患者さんの背を支え、「痛みますか?」「お薬飲みましょうか?」と尋ねてもいます。定時で飲んでいる薬と痛みがあったときの薬の違いを説明し、後者を勧めたのは、患者の経験している痛みが鎮痛剤を必要とするほどひどいものであることが、ペインスケールで数値を確認するまでもなく、直接的に見てとられていたからでしょう。このように、看護師が患者の痛みを痛みそのものとして見、そして受けとめたとき初めて、患者は看護師の声かけに再び応じたのでした。

 

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今回の事例では、看護師にとっての「患者の痛み」という数値化されえない「現象」が問題になっていましたが、実は患者の痛みだけでなく、現象学が捉えようとする「現象(意味)」は一般に、量的に数値化されることができないものです。「意味」は質的に記述することはできても、量的に把握することはできないからです。

 

ですから「現象(意味)」は、量的なデータ(量的エビデンス)をベースにする医学や生理学などの自然科学的なアプローチによっては、原理的に捉えることができません。「現象(意味)」をありのままに捉えるためには、むしろ自然科学的なものの見方や量的に物事を捉える見方をいったん棚上げする必要があります。

 

この事例では、量的に物事を捉えようとする見方を、看護師が自発的・能動的に棚上げしているわけではありませんが、患者が「ペインスケールは聞くな」と言い、定期的に内服していた薬すら飲もうとしなくなってしまったことで、看護師はもはや痛みを量的に捉えることができなくなり、これまでの痛みをペインスケールによって量的に捉えようとする見方がおのずから棚上げされていった、と考えることができるのではないでしょうか。

 

患者の痛みを量的に捉えることができなくなったことで、患者(の痛み)に対する看護師のかかわり方・態度が変化し、痛みの「現象」のしかたが変わりました。とすれば、当の事象そのものへのかかわり方・態度と、「現象」のしかたとの間には、密接な関係があるわけです。

コメント:西村 ユミ

 

上述の解説を読んで、ある事象の私たちへの現われ(意味)が、何を前提とするかによって大きく異なってくることを実感しました。

 

痛みをペインスケールで評価していた頃、その前提は、痛みを数値で表すことができること、さらには痛みを、それを評価する者から切り離して(対象化して)把握できることなどとされておりました。そのため、看護師が見た患者さんの痛みの表情などは語られず、それ以上に、患者さんが答えたペインスケールの数値とその変化に関心が向けられておりました。

 

解説でも述べられているとおり、その見方や態度において看護師は、痛みを感じとっている患者さんの状態に直に触れ、痛みをそれとして見ているわけではありません。

 

ところが、患者さん(の状態)は、そのような見方や態度を許しません。その患者さんの抵抗が、看護師の見方や態度を変えさせます。解説においても記されているとおり、「患者の痛みを量的に捉えることができなくなったことで、患者(の痛み)に対する看護師のかかわり方・態度が変化し、痛みの「現象」のしかたが変わ」っていったのです。

 

ここではその後に述べられた、「とすれば、当の事象そのものへのかかわり方・態度と、〈現象〉のしかたとの間には、密接な関係がある」ことについて、もう一言加えておきます。

 

患者が、自身の体を起こし上げることができず、眉間に皺を寄せているそのことは、看護師に「とても痛そう」という意味を直接見て取らせています。そのように解説されてもいますが、そのとき同時に看護師は、「咄嗟に患者さんの背中を支え」たと言います。

 

言い換えると、看護師は患者さんの状態を「とても痛い」ために起き上がることができないと理解し、その後に、背中を支えることをしたのではなく、「咄嗟に」支えることを行っているのです。

 

そうであれば、解説で述べられた「当の事象そのものへのかかわり方・態度」と言える「咄嗟に支える」は、患者さんの痛みの状態そのものへの直接的な応答であり、痛みの状態そのものの現われとも言えます。

 

つまり、かかわり方(行為)・態度と「現象のしかた」は、対(セット)になって成り立っており、この事例の場合、事象の現われ(意味)は、私たちの身体性と分かちがたく結びついているのです。

 

現象学における「事象」は、「物事や出来事や人々が何らかの意味を帯びて経験されたり出会われたりすること」であると紹介されておりますが、この「何らかの意味」として現れる、その成り立ち方(構造と発生)について探究することを仕事としております。この点については、改めて取り上げられることになるでしょう。

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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