キーワード「現象」について考える事例 (提供:西村 ユミ

 

以下はずいぶん前に、ある新人看護師から聞き取った事例です。

 

その患者さんは高齢の男性で、肺がんの終末期の状態にあり、がん性疼痛がうまくコントロールできないために入院をしていました。この患者さんには、末期の状態であることが伝えられておらず、家族もどのタイミングで伝えるのかを迷っていたころでした。

 

看護師は、痛みのコントロールを目的とした入院であったために、訪問のたびに痛みの程度を聞き、定期的に内服している薬の効果を確認するとともに、必要に応じてレスキューの鎮痛剤を使用して、できるだけ痛みを感じることがないように調整しようとしました。言い換えると、看護師たちは、患者さんの痛みを「評価」することを、かかわりのスタイルとしていたのです。そのために、病室を訪れるたびに看護師たちは、「痛みどうですか?」「(フェイススケールを使って、最も強い痛みを)5とするとどれくらいですか?」と問いかけ、患者さんが応える数値を書き留めて、その変化を確認していました。

 

ところがある勤務帯で、看護師がいつも通りペインスケールで痛みの程度を聞いたとき、患者さんは突然、「いつも同じこと聞くんじゃない!」「変わらないよ!」と怒鳴ったのです。定時の薬を手渡そうとすると、「そんなものはいらない」とそっぽを向いてしまいました。その後は、何度足を運んでもペインスケールは「聞くな」と言われ、薬を飲むかと聞いても「いらない」と即答されるばかりでした。その看護師は、患者さんが痛みを経験しているのに「飲みたくない」と言っていたのでは困るから「ほっとくわけにはいかない」と思い、たとえ断られたとしても、慎重に表情や動きをみて声をかけるタイミングを見計らっていました。

 

しばらくの後、改めて病室を訪れて声をかけてみました。その際、患者さんは体を起こそうとするのですが、うまく起き上がれません。眉間に皺が寄せられたとても痛そうな顔を見て、看護師は咄嗟に患者さんの背を支えて、「痛みますか?」「お薬飲みましょうか?」と尋ね、定時で飲んでいる薬と痛みがあったときの薬の違いを説明し、後者を勧めました。そのとき、患者さんは「ああ飲む」と応じたと言います。

 

看護師は、頑なに薬を「いらない」と拒否していた患者さんが、「ああ飲む」と応じたことに安堵するとともに、自身のかかわり方や態度を問い直したようでした。

『交流する身体』(西村ユミ著、NHKブックス、2007年)の例を一部改編

さて、この事例で問題になっているのは、肺がん終末期で痛みのコントロールがうまく行かない患者へのかかわり方、とりわけその患者が経験している痛みへのかかわり方です。「現象(意味)」というキーワードを手がかりにすると、この事例はどのように読み解くことができるでしょうか。

 

ここでは、患者の痛みが看護師によってどのような意味で捉えられているのか、つまり看護師にとって患者の痛みがどのように「現象」しているのかに注目して、考えてみることにしましょう。

 

看護師は最初、この患者が「肺がん終末期の状態」で「がん性疼痛がうまくコントロールできないために入院」してきたために、「痛みのコントロール」を「目的」として、訪問のたびにペインスケールを用いて痛みの程度を聞き、定期的に内服している薬のほかに、必要に応じて鎮痛剤も使用して、できる限り痛みを感じることのないように調整しようとしました。このとき、看護師にとって患者の痛みはどのような意味で捉えられ、どのように「現象」していたでしょうか。

 

事例を読む限り、患者の痛みは「ペインスケールでその程度を数値化することができ、またその数値に応じて薬でコントロールすべきもの」として捉えられていたのだと思います。つまり、看護師が患者の痛みを評価し調整しようとする「スタイル」「態度」で臨んだために、患者の痛みは、数値化されコントロールされうるものという意味で捉えられ、看護師に「現象」していたのです。

 

ところが、ペインスケールを用いて繰り返し痛みの数値とその変化を確認しようとする看護師に対して、患者はあるとき、突然怒り出し、その後は何度足を運んでもペインスケールは「聞くな」と言い、定期的に内服している薬すら飲まなくなってしまいました。このことは、何を意味しているのでしょうか。

 

少なくとも、痛みを数値化可能なものという意味で捉え、ペインスケールを用いて痛みの数値とその変化を確認しようとする看護師のかかわり方が、この患者にとっての「痛み」の直接的な経験とかけ離れており、そのことが患者を苛立たせたであろうということは、まず言えると思います。

 

この患者自身が内面的に「痛み」をどのように経験していたのかは、彼が心のうちを具体的に詳しく語っていない以上、正確にはわかりません。痛みの数値ばかりを問われることで、よけいに痛みを意識してしまうといった状態になっていたかもしれませんし、また、相当な痛みがあるにもかかわらず、末期の状態であることが伝えられていなかったとすれば、繰り返し痛みの数値を問われることで、自分はどんな病状なのか、不安でいっぱいになっていたかもしれません。

 

しかし、たとえ患者の内面が十分に理解できないとしても、患者の痛みそのものは、患者の「表情や動き」に直接現われ、私たちはそれを患者が経験している痛みとして直接見ることができるし、また実際見ているのではないでしょうか。うまく起き上がれず「眉間に皺が寄せられた」患者の姿を目の当たりにすれば、私たちはそこに、──眉間に皺を寄せているのだから患者は痛みを感じているに違いないというような間接的推論をすることなく──患者の痛みを直接的に見るのではないでしょうか。

 

だとすれば、ペインスケールを用いて患者の痛みを評価しようとしていた看護師は、そのかかわり方・態度のゆえに、痛みを痛みとして受けとめることなく、最初から痛みを数値で捉えようとしてしまい、そのためこの患者の痛みが、患者によって直接経験されている痛みとして見えていなかった、あるいは患者の痛みを、患者によって直接生きられている痛みとして見ようとしていなかった、ということになります。看護師は「表情や動き」に現われる患者の痛みという直接的な「現象」そのものを捉え損ねていたのです。

 

 

    

    

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

© Japanese Nursing Association Publishing Company

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