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東京慈恵医院病棟内部(バルコニー側に向かって撮影)
text by
芳賀 佐和子
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前のページとこのページの背景写真は、実際の病棟のようすである。窓1つにつきベッド2つが配置され、窓は天井近くまで開けられて、ベッド間隔も広くとられていることがわかる。
明治18年に開設した有志共立東京病院看護婦教育所の生徒の訓練はこの病棟で行われた。ナイチンゲールの看護教育に対する考え方の1つに、「看護は実践の学問であり、学生は臨床の場で育てられるべきである」との主張があり、看護教育のためにも病棟建築を急いだ様子がうかがわれる。
有志共立東京病院看護婦教育所
日本で最初の看護教育はどのよう開始されたのであろうか。高木は、ナイチンゲール看護婦訓練学校の教育をイメージしていたようである。
看護の指導者は、アメリカ長老教会宣教師で、教師として新栄女学校●6に派遣されていたMary E. Reade(以下、リード)であった。教育目的は、病院内はもとより派出看護に応じることができる看護婦の養成である。看護婦に必要な要素として、病人の病状をよく理解すること、看護の方法を習得すること、病人の身になって看護ができること、正しい作法を身に付け、病人の看護に当たっては謙遜、辞譲、温和であること、が掲げられている。
●6 新栄女学校長老派婦人伝道局が日本の女子教育のために東京・築地居留地に設立したミッションスクール。はじめはB六番女学校という名称だったが、移転後、新栄女学校と改名した。後に桜井女学校と合併し、女子学院となった。
この教育目的を達成するために学生たちは選抜された。生徒募集は新聞広告により行い、教育システムは、入学試験を行い、見習生を採用し、病室での見習い期間2~3か月後にまた試験をして、適性を認められた者が生徒として2年間勉強する、という方式であった。生徒は寄宿舎で生活し、教育を受けた。
看護婦教育所の建物は、明治19年1月20日に落成した。建物の面積は約45坪、2階建て・レンガ造りの瀟洒な建物であった(図6)。
図6 有志共立東京病院看護婦教育所の建物外観
建物の内部は洋風で、学生たちは高木の主張する健康な生活を実現するために、衣・食・住において改良が加えられ、身体の成長を考え、椅子の生活を送った(図7)。
図7 教育所内での生徒の清掃の様子
看護婦教育所の1回生は、明治18年10月から徐々に生徒見習13名が採用された。病室での見習い3か月後に適性を認められた5名が生徒として採用された。年齢は20歳〜26歳の人たちであった。
修得科目は、「学説」と「実際」に分かれていた。「学説」は解剖、生理、看護法で、看護は『Handbook of Nursing』を訳した『東京慈恵医院看護学』上・下巻が使われた。「実際」は解剖、包帯、巴布(粥状にした薬剤を塗った布を貼り付けて湿布をすること)で、病院の実習は前述の東京慈恵医院第1号病棟で行われた。評価は、臨時に行う小試験と卒業前に行う卒業試験があった。1回生は明治21年2月1日に5名が卒業し、日本で最初の訓練を受けた「看護婦」が誕生した。
リード自身が、日本での自分の看護教育の様子について雑誌に執筆している。そこには、リードが教えている看護生徒の絵とともに、「病院には30人の看護婦が勤務し、彼女たちは今では看護婦と呼ばれることに誇りを持っている。病院にとても愛着を持っていて、派遣されるときは喜んで出掛け、再び喜んで戻ってきている」と書かれている。
リードは看護法を教授するのみならず、看護婦帽子、前掛けなどを寄付し、看護婦の服装を整え、職業としての看護の在り方を示した。
セント・トマス病院で学んだ日本最初の看護婦留学生
明治20年にリードとの契約が切れることを考えた高木は、看護法を研究するために、英国のセント・トマス病院へ留学生を送った。拝志ヨシネ(22歳)と那須セイ(21歳)の2人の看護婦生徒は、明治20年7月23日に横浜港から出帆した。この留学については、明治20年8月5日の『医事新聞』に、「看護婦洋行の嚆矢」として掲載された。
帰国後、拝志改め林ヨシネは男室看護長兼手術室掛に、那須セイは女室看護長兼外来診察場掛として活躍し、セント・トマス病院の看護制度を慈恵に導入することに尽力した。2人の活躍は当時の雑誌に紹介された。
明治23年7月1日発行の『女学雑誌 第221号』に、「慈恵医院を訪問した女学雑誌の記者を、八木まさが案内し、林(拝志)と那須とで病室を巡った。林は英国より持ち帰った写真を見せセント・トマス病院を説明してくれた。(後略)」という記事が掲載された。
また、明治24年3月7日発行の『女学雑誌 第255号』には、「慈恵医院」と題して次の記事が掲載されている。
慈恵医院──東京芝の同院は益々整頓に赴きたり、同院は貴婦人の寄附を以て設立し、専ら貧困にして、自ら治療し能わざる病人を施療する所なり、看護婦は試験の上採用す、初見習生として、数ヶ月試業し、後生徒に進む、卒業期は3年にして、毎日学理的より看護法を研究し、又直接病人に接して実地修業す、其業務の繁忙なる、毎日午前4時に湯を沸かし、小桶に入れて、病人の顔手を、一人毎に丁寧親切に洗ふ故、今日か、明日かの危篤なる病人も、其苦痛を忘れて喜び合へり、看護婦長は男女両室に各一名ありて、3、4年間海外にありて看護法を修め、熱心なる献身的の慈善家なり、身には質朴にして粗末なる黒服を着し、常に病室を離れず、看護婦を指揮するとぞ。
ここに書かれている看護婦長は、林ヨシネと那須セイを指している。2人はセント・トマス病院のマトロン(看護総監督)と同じように黒服をまとい、英国で学んだ病人に対する心のこもったケアを指導していた。帰国後の2人の働きは「セント・トマス病院の看護を日本に」という高木の目的を達し、慈恵の看護の礎を築いたといえよう。
シカゴ万博の記録集記事から
1893(明治26)年のシカゴ万博時に開催された「世界慈善・矯正・博愛会議」の記録集の中に、ナイチンゲールの「SICK NURSING AND HEALTH NURSING」と高木の「TOKYO CHARITY HOSPITAL」の記事が同時に載っている。当時73歳のナイチンゲールは、「SICK NURSING AND HEALTH NURSING」(病人の看護と健康を守る看護)を代読の形で発表した。
高木(当時44歳)は、施療病院の状況を報告すると同時に、日本で最初の教育機関である有志共立東京病院看護婦教育所についても書いている。
施療病院の部分の概略は以下の通りである。
※病院の構成や財政のほかに、病棟は2階建で、病棟はパビリオン方式によりレンガで造られている、患者の支払いはない、感染患者用のベッドが用意されている、病院の食事と台所は日本式である、手術室は木造である、すべての洗濯は病院の外で行われている、ことなどが書かれている。
次にTokyo Charity Hospital Training School for Nursesとあり、有志共立東京病院看護婦教育所について、「1885年に設立、教育年限は2年半、履修科目は基礎的な解剖学・生理学・看護学、開校から8年が経過、122名が入学し47名が終了、筆記・口頭試験・実技試験の後に証明書を取得したトレインド・ナースは人々に受け入れられている」と記載されている。
これらの記述から、病院建築(施療病院)と看護教育(看護婦教育所)、いずれもナイチンゲールの影響を強く受けていることがわかる。このシカゴ万博「世界慈善・矯正・博愛会議」記録集は、ナイチンゲールの目に、そして高木の目にとまったものと考えられる。
高木が英国留学中に、当時55〜60歳であったナイチンゲールと会ったという記録は見当たらない。しかし、1890(明治23)年5月6日に佐伯理一郎●7がナイチンゲールに会った際に、佐伯が高木兼寛の助手をしていたことを伝えると、「高木先生のお名前は、よく聞いています」と喜ばれた、という記録がある。
●7 佐伯理一郎明治〜昭和期の産婦人科医、医史学者。京都看病婦学校・京都産婆学校の校長を歴任し、看護婦・助産婦の教育に尽力した。
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昭和5年に竣工した東京慈恵会医院の建物の一部にある病室は、大部屋として使用されていた。耐震上であろうか柱が多く見られるが、基本はナイチンゲール病棟と類似している。この建物は時を経て、内部は改装を繰り返しながらも、慈恵の構内に現存している(図8)。
図8 昭和5年に竣工した東京慈恵会医院
周囲の建物が新しくなって行く中で、ただ1棟残っているこの古びた建物の存在は、英国の医療とフローレンス・ナイチンゲールの思想、そして学祖・高木兼寛の健学の精神への回帰に人々を誘うように思える。
引用文献
参考文献
図の所蔵