欧州とアジアに挟まれた黒海は、さまざまな国家や民族が交わる境界地として古来より交易が盛んでしたが、同時に常に争いの絶えない場所でもあります。特にその内側に大きく突き出たクリミア半島は地政学的に重要な意味を持ち、1853年から1856年にかけてオスマン帝国を支援する形でフランスとイギリス連合軍がロシア軍と戦ったクリミア戦争のほか、最近では2014年のクリミア危機(クリミア併合)の舞台となりました。しかし一方で、そこは古くから風光明媚な一級のリゾート地でもありました。かつてフローレンス・ナイチンゲールが従軍したこのクリミア半島とは、いったいどのような場所なのか。NHK解説委員でロシア情勢の専門家・石川一洋さんにその歴史と現在について解説をお願いしました。

(2019年2月公開)

写真:クリミア・ケルソネスの遺跡と聖ウラジミール大聖堂  Ruins of Chersonesos, Crimea by Dmitry A. Mottl   (CC BY-SA 3.0)

クリミアは誰のものか

 

「クリミアはロシアの固有の領土であり、セバストポリはロシアの町だ」プーチン大統領は、2014年3月18日、クリミアでの住民投票で圧倒的多数がロシアへの編入を支持したのを受けて、クリミア併合を宣言した。しかし果たしてクリミアはプーチン大統領が言うような固有の領土という概念が適応する土地であろうか。

 

黒海とアゾフ海に挟まれ、かろうじて陸地とつながる半島クリミアは、北部はウクライナにつながる草原地帯、そして南部は多くの良港を生み出す山岳地帯であり、紀元前のギリシャ時代から交通の要所として知られてきた。地理的にはクリミア半島はロシアに通じるドン川、そしてウクライナの大河ドニエプル川、さらにヨーロッパの大河ドナウ川という三つの大河にアクセスする戦略的な位置にある。

 

クリミア半島はギリシャ神話やヘロドトスの歴史の時代からタウリカと呼ばれている。タウリカとはタウロイ人の住む土地で、ヘロドトスによればタウロイ人は「難破漂着した者や黒海上で捕らえたギリシャ人を「処女神」の生贄にする。……タウロイ自身の言うことには生贄を捧げる女神はアガメムノンの娘イビゲネイアであるという」。いわば海賊を生業とする部族として描かれている。ヘロドトスの歴史ではペルシア王ダリウスが、ドナウからウクライナにかけてスキタイに遠征し、遊牧民族スキタイの遊撃戦法の前に大敗北を喫する姿が印象的だ。

 

その当時からタウリカ(クリミア半島)はスキタイなど遊牧民の住む草原とギリシャなど地中海文明をつなぐ境界だった。そこにはフェオドシアやケルソネス(カバー写真)などギリシャの植民都市が築かれ、穀物や蜂蜜、毛皮などユーラシアの草原や森林のもたらす富がクリミアの交易都市を通じて地中海にもたらされた。スキタイ人、ギリシャ人、ローマ人、ゴート人、ハザール人、アルメニア人、トルコ人、ユダヤ人、スラブ系の人々、モンゴル人、さらにベネチアやジュノアの植民都市など多くの民族が交差し、混じり合う土地であった。

 

クリミア半島の戦略的な位置にもかかわらず、クリミア半島を足場にほかの地域へと支配を広げる場となることはほとんどなく、ギリシャ、ローマ、ゴート、ビザンチン、キエフルーシ、モンゴル、ベネチア、ジュノアなど外部の勢力がクリミアの支配者として何度も入れ替わった。一つの民族がクリミアを占有することはなく、クリミアは常にさまざまな民族、勢力が争い、共存する場であった。

 

ロシア国家の源ともいえるキエフルーシが一時クリミアに影響力を強め、北部の支配権を握ったことはあったが(10世紀)、どちらかと言えばロシアの影は薄い地域であった。クリミア半島はある国や民族の固有の領土というにはもっともふさわしくない土地であるように思う。

 

 

脅威としてのクリミア・モスクワ大公国時代

 

「クリミアはこの地域の安定にとってもっとも重要なファクターであり、この戦略的な領土は、強く、安定し、独立した国の下になければならない。そのような国は今の現実ではロシアだけだ」

(ウラジーミル・プーチン、2014年3月18日)

 

クリミアが不安定化することあるいはロシアにとって敵対的な勢力の支配下に入ることへの恐れが、プーチンをクリミア併合に踏み切らせた理由の一つだ。それには歴史的な背景がある。ロシア国家の形成にとってクリミアが大きな意味を持つようになったのは、13世紀バツーに率いられたモンゴル軍が侵攻し、クリミア半島もモンゴルの支配下に入ってからだ。モンゴルはキエフルーシの中心だったキエフを破壊し、ジョチ・ウルス(黄金のオルダ)がロシア南部から今のウクライナにかけて広大な土地を支配した。しかし15世紀半ばになるとジョジ・ウルスもいくつかのハン国に分裂して、クリミアにはクリミアハン国が形成された。

 

一方モスクワもモスクワ大公国としてキエフに代わりロシアの支配者として台頭し、カザン、アストラハンとモンゴル系のハン国を滅ぼし、カスピ海へと版図を広げた。15世紀以降モスクワとクリミアが対峙する時代が3世紀にわたって続いた。ロシアにとってクリミアハン国によって黒海とアゾフ海の出口が塞がれ、地中海への交易路を握られるとともに、毎年のようにロシアに襲撃を繰り返す直接の脅威だった。イワン雷帝の時代、1571年にはクリミアハン国の大軍によってモスクワが焼き払われた時もあった。

 

クリミア半島を敵に握られるとドン川ドニエプル川の河口を抑えられ、ロシアの心臓部への侵攻を防ぐのが難しい。モスクワ大公国はクリミアハン国の侵攻を防ぐために、三重に及ぶ防衛ラインを築いた。モスクワ大公国そしてロシア帝国はクリミアハン国とその後ろ盾オスマントルコと15世紀から18世紀にかけて戦争を繰り返したのは、黒海への直接の出口を求めるとともに脅威としてのクリミアを自国領とするためだったのだろう。

 

一方ロシア領となったクリミアはロシアの影響力拡大の橋頭保であり、軍事的な拠点としての性格を19世紀、20世紀を通じて強く持つことになる。1783年、セバストポリを本拠とする黒海艦隊がエカテリーナ2世の命令によって創設された。セバストポリはロシアの対トルコそしてバルカンへの影響力拡大の拠点となった。クリミア戦争当時の皇帝ニコライ1世は次男にコンスタンチンと名付け、それはオスマントルコの首都イスタンブールを取り返し、再びビザンチン時代のコンスタンチノープルとするためだった。しかしクリミア戦争の敗北でロシア帝国は艦隊の保有を禁止され、ロシアの野望は頓挫することになる。

 

 

連邦の保養地としてのクリミア

 

クリミアを、列強やさまざまな民族による地政学的な争いの地、あるいはロシア帝国、ソビエトによる領土拡大の軍事的拠点としてだけ見ることは、公平さを欠くだろう。

 

風光明媚で温暖な気候に恵まれたクリミアは、ロシア帝国においても、そしてとくにソビエト連邦においては第一級の保養地であり、この地での休暇は庶民の憧れの的であった。ロシア帝国の時代はロシア皇帝のリバディア宮殿をはじめ、貴族や豪商がクリミアの各地に豪華な別荘や宮殿を建設した。また共産党書記長など幹部用の豪華な別荘もつくられた。1991年8月にゴルバチョフ書記長がクリミア・ファロスにある共産党書記長用の別荘で休養中に、保守派のクーデターが起きている。

 

庶民にとっても多くのサナトリウムやホテルが建てられた。皮肉なことに第二次大戦後、クリミアの軍事的な意味は低下した。バルカンの勢力地図も定まり、ボスポラス海峡はNATOの同盟国トルコによって抑えられ、地中海においてもNATOの優勢は明らかだった。

 

原子力潜水艦の基地としての北方艦隊やオホーツク海を内海としつつ、アメリカの第7艦隊と対抗する太平洋艦隊と比較して、黒海艦隊は防衛的な意味はあっても戦略的な役割は低くなった。ソビエト海軍の将校の間では、北海艦隊や太平洋艦隊での厳しい勤務で階級を上げて、最後は保養地の黒海艦隊で任務を終え、できればクリミアに別荘を与えられるのが理想のキャリアだとされ、ソビエトの中で黒海艦隊は「年金生活者のための保養地艦隊」ともいわれた。

 

1954年2月、ソビエト最高幹部会はクリミアをソビエト連邦内のロシアからウクライナへと移管する命令を下した。ソビエト連邦の枠内でクリミアはウクライナ領となったのである。一説にはウクライナ人でもあるソビエト共産党書記長のフルシチョフが、ウクライナとロシアの統合三百周年の贈り物としてウクライナ共産党幹部の歓心を買うためにクリミアをウクライナに与えたともいわれる。

 

ただクリミアが道路、鉄道、水利などでロシアよりもウクライナに結びついていており、こうした実態としての経済的な結びつきに合わせた決定ともいわれている。いずれにしても、ソビエト連邦の枠内でクリミアはウクライナの一部となっても、ソビエト連邦全体の保養地であり続けたのだ。

 

 

 ● >

 

いしかわ・いちよう

NHK解説委員。東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。1982年NHKに入局。秋田放送局記者、青森放送局三沢通信部記者、報道局取材センター国際部記者を経て、1992年モスクワ支局記者に。ソビエト連邦末期からロシア・旧ソビエトを取材し、エリツィン時代とプーチン時代の二度にわたり特派員・支局長としてモスクワに赴任。2007年より現職。2017年NHKを定年退職(解説委員は継続)後は、ロシア、中央アジア中心に多様なネットワークを活かした取材を続ける。ソビエト連邦崩壊を伝えた番組(NHKスペシャル)で菊池寛賞、旧ソビエトの核汚染を取材した番組(NHKスペシャル)で放送文化基金賞を受賞。

 

>> top

新刊情報 2022年2月16日刊行

シリーズ◉ナイチンゲールの越境 6[戦争]

ナイチンゲールはなぜ

戦地クリミアに赴いたのか

あなたたちをクリミアの墓に残したまま帰ってしまった、とても悪い母だった……

 歴史上初の「世論」が戦局を左右した戦争と言われているクリミア戦争。ナイチンゲールがヒロインとなったのも、この世論が大きく関係している。悲惨極まりない戦地の病院で負傷兵の看護に邁進したナイチンゲールを、人々は「クリミアの天使」と崇めた。

 しかし本人は、多くの兵士を死なせてしまったことに深い自責の念を抱いていたのだった。クリミア戦争でのナイチンゲールの活躍だけでなく、当時の政治・社会・経済・文化的背景など様々な側面に焦点を当てて考察した本。

シリーズの詳細はこちら

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会   Copyright (C) Japanese Nursing Association Publishing Company all right reserved.

fb_share
tw_share

写真:クリミア・ケルソネスの遺跡と聖ウラジミール大聖堂  Ruins of Chersonesos, Crimea by Dmitry A. Mottl   (CC BY-SA 3.0)