©2019 Taeko Hagino
< ● ●
母親の下着
朔医師から聞いていたとおり、母の顔はだんだんと腫れが引いてきていた。坊主にされた頭には、白髪まじりの毛が短く生え始めている。やはり手術後の脳がむくんでいるせいか、母は片目は閉じたまま「だるい」とか「痛い」と言う以外は言葉数も少ない。でもそれで、日に日に回復していることがわかった。
病院のベッド上でリハビリを受けていた母は、今日から車椅子に移る訓練とリハビリ室での訓練、そして本格的な言葉の訓練が開始されるらしい。さらにオムツからパンツの生活になるらしいという話を聞いた。
家から母の下着を持って来なければならなくなった。
自宅に戻った太郎は、引き出しを開けるのが憂鬱だった。「憂鬱だ」と思えるってことは、自分がやるしかないという状況から、少し気持ちに余裕が出てきたのだろうと思う……。
「さて」
息を吸って気合を入れ、太郎は取っ手に手をかけた。中からいったいどんな下着が出てくるのか……。ゆっくりと引き出しを引く。ピンクやら赤やらオレンジやらが、きちんと整列している。
「うわっ! 花畑や!」くるくると丸められたパンツの中から、レースがついていない比較的地味目のやつを3枚取り出す。太郎は玉入れの玉のような柄の赤いパンツ……をしばらく眺めた。目の前の鏡には、間違いなく赤いパンツを握っている自分が突っ立っている。
「勘弁してよ……くらくらする」
「母さん、マジでこんな下着ばっかり着けてるのかよ……女子大生が持っててもおかしくなさそうなやつじゃん……たぶん(女子大生がどんな下着をつけているか知らんけどさ)」
今までだって、洗濯物とかで目にしてきたはずだが、全く見ていなかったんだと思った。保育園の頃、一緒に下着のセールに連れて行かれたこともあるらしいが、自分は覚えていない。
「太郎がね〈ママこれこれ!これがいいんじゃない?〉って、ブラジャーもパンツも選んでくれてたんよ〜」。という話を最近まで何度も聞かされていた。太郎はそのたびに「まじ……あぁダルイ」と、うんざりしながら返事をしていたけど、いつかまた、あんなふうに話せるようになるといいな……。
「母さんが帰ってきたら、受験生でも洗濯ぐらいしなきゃな」
病院から母の下着が入っている洗濯袋を持ち帰った太郎は、中身など一切確認せず、一気に袋から洗濯機に放り込んだ。
月明かりの夜空、満点の星の下、東尾家の夜のベランダでは、男子高校生が洗濯物を干している。ブラジャーとパンツをベランダで干している。太郎は祈る。〈あぁ、神様。絶対に母さんのパンツとブラジャーを干している姿を誰にも気づかれませんように……〉。
幸い東尾家のベランダは、腰のあたりから上しか外から見えないようになっている。でも、たとえ母の派手な下着を見られないとしても、母の下着を干しているのだろうことを想像されるだけで恥ずかしい。
暗闇の中、腰をかがめてサッと干す。ラグビーのタックルよりも速く、速く……。作業を終えると、太郎は「よし!!」と意気込んで、何ごともないように涼しい顔でサッと立ち上がった。
そういえば、わが家での父の役割は、洗濯物を畳むことと風呂の掃除だった。父もベランダで干しているところを見られたくなかったのではないかと思う。今なら父の気持ちがよくわかる。
慧人と太郎
「あっ!!」洗濯籠の中にオレンジのパンツが残っていた。かなり凹む。肩を落としてため息をついたところに、慧人からラインが入る。
〈明日、部活終わったら、昼飯、寿司の食い放題いこうぜ〉
〈ちょっと、明日は無理〉
〈かあちゃんの病院?〉
〈そ〉
〈うちの父親にも、何かできることあれば言っておくよ〉
OKのスタンプを送り、慧人に女性の生理用品について質問をするか少し躊躇する。しばらく携帯を見つめていたが、思いきって聞いてみた……だって困ったら聞くしかないって言ったし。
「慧人、悪いけどさ、女物の下着につけるシートって……パンツにつけるやつ。あれさ、どうやって買ったらいいと思う?」
「シートって、テレビとかでやってる?」
「そうそう。コンビニまで行ってみたけどさ、やっぱ俺には勇気が出ん。買えんかった。でもさ、あれ使ってもらったほうが、洗濯するとき多分楽なんよ」
「そんなの調べるのってネットでいいんじゃねぇ? 急ぐわけじゃないならさぁ……まぁいいよ。わかったよ。考えてみるよ」
慧人は父親との二人暮らしである。彼の父親は、太郎の母と同じ母体の大学の人事部長だ。母が以前、大学のゴタゴタに巻き込まれたときには、ずいぶんと力になってもらった。
「今回の入院も、もしかすると、職場のいろんなことに疲れていたことが原因なのかも……」と、慧人がポツリと呟いた。しかし太郎は、自分にはどうしようもないことだから、今は母親の体のことだけ心配しようと思い、首を横に振る。
太郎と母にとって、ソーシャルワーカーの田村さんや朔先生、慧人や彼の父親は心強い存在だ。母親がいない慧人の家庭にとっても、父親不在でも踏ん張って生きている太郎と母の姿が支えになっているのだろうと思う。
慧人と太郎は小さい頃からいつも一緒だった。両方の親が勤める九西大学のキャンパスや職員室を探検したり、東尾家でよく夕食を共にしていた。あの頃はまだ家に父がいた。いったい今、どこでどうしているんだろう……。
* * *
ラグビー部の部室は、キャプテンお気に入りのアイドルポスターだらけだ。太郎は汗臭い仲間たちに「おつかれ」と声をかけて、銀行のATMに寄ったあと病院に向かうため、そそくさと自転車に乗ろうとしたところへ、小泉弘美が「タローちゃん」と言いながら追いかけてきた。
太郎は「ついに告白か?!」と期待したが、ただ4月からの部費の袋を両手で渡されただけだった。
「はい」(部費、よろしくね)
「はい」(わかりました)
片手で袋を受け取り、ラグビーバッグのサイドポケットに入れる。サッと前を向き太い腿でペダルを踏み込む。斜めがけのラグビーバックが少し重たい。前カゴにはファスナーで固く閉じられた学生鞄があり、その中に洗濯済みの母親のパンツが入っている。
ペダルを踏みながら太郎は神に祈った。「絶対に今、自分は事故には遭ってはならない。どうか無事に九西大までたどり着けますように。何かに巻き込まれて職務質問とか受けませんように……」
とにかく誰にも、学生鞄の中身を見られてはならない!
第6話 につづく
< ● ●
「九州男児」の実態は……?
西尾美登里
日本の共働き世帯は1980年頃から増加し始め、1997年には「サラリーマンの妻で専業主婦」である世帯を、共働きの世帯が上回りました。そして2015年には、いわゆる女性活躍推進法(女性の職業生活における活躍の推進に関する法律)が成立。この法律により、働く場面で活躍したい女性の力を発揮できる社会の実現に向け、女性の活躍推進への行動計画の策定と公表や女性の職業選択の情報公表が事業主に義務付けられました(内閣府男女共同参画部ホームページ参照)
女性活躍推進法が施行された後は、女性の活躍できる職場づくりに取り組む企業が増えたとされています。しかし、仕事を終えて家に帰ってきても、妻・母には家事が待っています。共働き世帯において女性の家事が減らなければ、女性ばかりに負担がかかります。
私は1999年に結婚しました。夫は私と同じ歳で、学校教育において男子は技術、女子は家庭科を学んだ世代です。夫は「男性の役割が家事だなんて信じられない」という考えの環境で育ったため、結婚当初、家事のほとんどを担っていたのは看護師として働いていた私でした。
総務省の「社会生活基本調査」(2016年)によると、共働き夫婦が担う家事(炊事・洗濯・掃除)の平均時間は、夫が14分/日、妻が180分/日でした。そこには約13倍の開きがあります。家事に加え、家事関連(介護・看護・育児・買い物など)の平均時間は夫が39分、妻が258分で約7倍差でした(なんなのでしょう、この差の原因は?!)。
この調査は「共働き夫婦」のみの世帯、「共働きの夫婦+子ども」の世帯、「共働き夫婦+親」の世帯別で統計が行われ、「夫婦のみ」世帯の家事時間は夫14分・妻147分(家事関連時間は夫31分・妻190分)。「夫婦+子ども」世帯の家事時間は夫14分・妻196分(家事関連時間は夫46分・妻294分)でした。
これを見ると、子どもがいてもいなくても、夫はあまり家事をしていないことが明らかです。おそらくそれは「家事を夫に頼んでも、慣れている自分がやったほうが早い」とか「見ているとイライラする」みたいなことも理由なのかもしれません。
私がそうでしたからよくわかります。慣れない人に物事を頼むときには、自分に気持ちの余裕が必要なのです。「洗濯物を干すことは嫌だけれど、たたむのはOK。洗濯物を干す姿を誰からも見られたくない」と言っていた当時の夫のことを、私は「理解できるようで出来ないなぁ」「見栄っ張りだなぁ」と思っていました。※今は率先してやってくれています。
「妻に家事を全部任せて、俺は仕事が第一」というポーズを取る・取りたい男性には、地域差があるような気がします。東京で暮らす何人かの共働きの友人たちは、誰もが当初から夫婦で家事を分担していました。九州は男性が強いというイメージがあるのかもしれませんが、実は女性がいろいろとやってしまう(やってあげる)から、男がゆっくりと座っていられるのだという説があり、それには納得ができます。
でも、一人暮らしや“ケアメン”など、一人で家事を行う状況が発生すると、人間は適応するものです。うまくいかないときには見栄を張らずに人に相談し、時間をかけて成長していく。女性は気持ちの余裕を持ち、あるいは少々思い通りにいかなくとも我慢をし、パートナーや息子に家事を委ねてみましょう。
< ● ●
©2019 Taeko Hagino