©2019 Taeko Hagino
特に母親の出血している脳の部位とその部位の機能、今後どうなるのか、手術の手法やリスクなど、ストーリーを描くような説明のしかたは見事で、高校生の太郎にもよく理解できた。──(本文より)
< ● ●
きっとうまくいく
矢継ぎ早に色々な職種の人間が入れ替わり立代わり説明をして、そのたびに太郎は「おねがいします」といった。
さまざまに説明を受ける未成年の男子を、気遣いながら話されている気もしたが、どちらかというと説明者はルーティン・ワークだと感じる。いちいち感情移入していれば、説明する人間の精神は到底もたないだろうし、その淡々とした感じは、つい感情があふれ出そうな家族にとってはありがたい。
きっと朔医師は、多分何千回と同じような状況の家族に説明をしてきたのだ。特に母親の出血している脳の部位とその部位の機能、今後どうなるのか、手術の手法やリスクなど、ストーリーを描くような説明のしかたは見事で、高校生の太郎にもよく理解できた。この説明は、朔医師の経験により頭と体に染み付いてるのだろう。
7枚の同意書にサインし終わると、太郎のラグビーで鍛えられた分厚い胸が大きく膨らみ深く肺に空気が入り、肩を落とすと肺を縮めながら深いため息が出た。田村と西野先生は顔を見合わせ頷いた。
「太郎君、何か手続き関係で困ったら、いつでも僕に連絡してね。あと、太郎君とお母さんの状況は……そうだね……いろいろと複雑な気持ちになることもあると思うけれど、最善を尽くして皆で君たちを守ることを考えると、太郎君やお母さんの事情は朔先生と医師と僕だけではなく、病院の事務や他のスタッフで共有したほうがいいと思う。病院の外に情報は漏れることはない。僕らには守秘義務があるからね。情報を共有しても太郎君が嫌な思いをすることはないだろうから、情報を事務や他のスタッフと共有してもいいかい?」
太郎はコクリと頷いた。
太郎の視野で、田村さんとのやり取りが、若手医師が打つパソコンの文字となっていく。田村さんは電話番号が書いたメモを太郎に渡した。太郎は田村の電話番号を、緑色のカバーがかかった生徒手帳の見開き左に挟みこむ。西野先生が田村に「僕にも連絡先を教えてください」と言っていた。
一旦外で待つように促される。
「今日は長いから、お前は一旦帰って風呂入って荷物とか取ってこい。先生がここで待ってるから」
西野の分厚く赤黒い手が、太郎に三千円を差し出す。
「ちゃんとタクシー使えよ。それ往復分」
「あ、はい。すみません。それに明日の試合は……」
「……お前、こんなときに謝んな。早よぅ帰れ」
「ありがとうございます」
病院のタクシー乗り場まで西野先生と歩く。西野先生の足音が耳に入るが、太郎の足はフワフワとして、夢を見ているんじゃないかなと思う。未だに悲しい思いや、不安などもなく、母親が入院していることさえもピンと来ないままだった。
多分日常でない状況が、感情を逸脱させるのだろう。
タクシー乗り場には、2台のタクシーが連なって停車しており、黄色と赤の帯が入ったタクシーには、長い白髭を持つ老人がハンドルを握っていた。すっかりと辺りは暗くなり、頭上の後方からオレンジの光が斜めに足元を照らす。
タクシーを覗き込むと、扉が自動的に開いた。太郎は後部座席に乗り込む前に、西野へと再度お礼を告げようと振り向くと、西野の赤黒い顔の白い目が際立って、白い中の瞳はとても気の毒そうに心配そうに太郎を見ていた。
西野が白髭運転手に「どうぞよろしくお願いします」と頭を下げると、運転手は会釈して病院を後にした。太郎は白髭運転手に行き先を告げると、タクシーはラッシュとは逆方向の我が家を目指す。
太郎は、手に握ったままの三千円を見ながら思う。この三千円は、西野先生の小遣いから捻出しているはずだ。太郎は、あるテレビ番組で、サラリーマンが懐事情を嘆いてる様子をみて「よっぽど高校生のほうが金持ちやんけ」と母親と話したことがある。
そう思っているうちに、一度も赤信号にひっかからず自宅に到着した。その状況は奇跡のようだと思った。そう思わずにはいられなかった。だからきっとうまくいく。
だからきっと、母さんは回復する。
第3話 につづく
もしも家族が救急搬送されたら……
福岡大学病院地域医療連携センター・ソーシャルワーカー 田村 賢二
ソーシャルワーカーは、保健医療機関において社会福祉の立場から患者さんやその家族の方々の抱える経済的・心理的・社会的問題の解決、調整を援助し、社会復帰の促進を図るための業務を行います。
具体的には、①療養中の心理的・社会的問題の解決、調整援助、②退院援助、③社会復帰援助、④受診・受療援助、⑤経済的問題の解決、調整援助、⑥地域活動、を行っています(厚生労働省『医療ソーシャルワーカー業務指針』より)。
この物語の太郎君のケースは、そんなソーシャルワーカーの僕でも戸惑い、難しいなぁと思いました。しかし現実に、少子高齢化社会のため家族の単位は確実に小さくなっており(図を参照)、太郎くんのような高校生のケースはそう多くはなくても、世帯構成における未婚の息子と母親との2人暮らしの割合は、確実に増えていくと予想されます。
いわゆる「おひとりさま」の患者さんで困難と思われるケースへの介入や、未成年の子が親についての意志決定を迫られる際には、立会人をたてることが理想ですが、それが難しい場合、ソーシャルワーカーは病院内のさまざまな職種を巻き込んで、問題解決へのコーディネート役を勤めます。
地域社会とつながりが乏しいご家族や患者さんの場合、社会資源へのアクセスをめぐる問題解決と医療提供が同時進行で必要となります。「治療しましたから、退院してください」というわけにはいきません。最近は入院から地域に返すまでの日数が短縮化し、限られた期間で問題解決を迫られるため大忙し。病院専用の携帯電話は常になりっぱなしで、あちこちを走り回っています。