「尊厳(ある)死」と「自発的消極的安楽死」の関係
「尊厳死」と「安楽死」について説明してきましたが、二つの言葉の関係についてさらに補足しましょう。
1994年に日本学術会議の「死と医療特別委員会」は、尊厳死のことを「助かる見込みがない患者に延命治療を実施することを止め、人間としての尊厳を保ちつつ死を迎えさせること」としました。また同委員会では、「延命医療の中止は一定の要件のもとに許容しうる」とした提言をまとめています*6。この委員会報告では、延命医療の中止といった消極的手段によって死なせること、すなわち、消極的安楽死のことを尊厳死と同義に考えています。
このように現在では「尊厳(ある)死」は、本人の意思に基づくことが大前提としたうえで、死なせる手段は治療の差し控えや中止などの消極的手段を用いる場合に用いられます。そのため「尊厳(ある)死」は、「自発的消極的安楽死」と同義で用いられる傾向にあります。
また消極的安楽死は安楽死の範疇に含めて考えないという考えもみられます。したがって、ただ「安楽死」という言葉を用いる場合には、薬剤の投与などの手段で積極的に死に至らせる「積極的安楽死」を指すことが多くなっています。さらに「(積極的)安楽死」について補足すると、医師から薬剤の服用や方策を提供されて、死を望む本人が死に至る行為を実施する場合は、「(積極的)安楽死」と区別して、「医師による自殺ほう助」いわれています。
日本において用いられる言葉の意味について説明してきました。しかし、日本と諸外国とでは、異なる用いられ方をすることもあります。たとえば、2014年にアメリカで、脳腫瘍終末期の29歳女性が、「尊厳死」が合法化されているオレゴン州に引越し、自ら選択した死を遂げたことは、大きな話題となりましたが、この場合の「尊厳死」は積極的な手段を用いた「医師自殺ほう助」です。日本で用いる「尊厳死=自発的消極的安楽死」とは異なることに注意が必要です。
Good Death模索としての「尊厳死・安楽死」そして「終活」
初めにGood Death(グッドデス)の話をし、そしてグッドデスには二つの意味、「上手に死ぬこと」と「気高く死ぬこと」があることを説明しました。
「上手に死ぬこと」とは文字通り「安楽死 euthanasia」であり、もう一つの「気高く死ぬこと」はその人らしさ、あるいは尊厳を保って死を迎える「尊厳死」と対置できます。言葉からすると「安楽死」と「尊厳死」も、ともに「よき死」から派生した死の様態、あるいはあり方です。その「よき死」を実現するために、法律や指針の作成が考えられ、また「よき死」に必要な本人の意思を把握するための具体的方策としての事前指示(書)の導入も考えられています。
上手に死ぬこと eu thanatos身体の生の終わりをいう医学的な意味▶「安楽死」(euthanasia) 気高く死ぬこと kalos thanatos死を迎える準備ができたという社会的な意味・社会性は人間らしさのいち側面・人間らしい詩を模索すること▶「尊厳死」(death with dignity)
社会的に大きな課題であり議論が進む「尊厳死」や「安楽死」に対するさまざまな取り組みと、昨今のブームである「終活」に基づく一部の人たちの活動は、直接的には結びつかないかもしれません。しかし、「終活」は気高く死ぬための準備をし、その人らしい死に方を模索する活動と考えられます。そのように考えると、「安楽死・尊厳死」を求めることと、「終活」は、ともにGood Death「よき死・望ましい死」の実現を志向することであり、実は起源は同じではないかと考えています。
(2015年10月13日、千葉大学普遍教育教養展開科目「生きるを考える」における足立智孝氏の講義「エンド・オブ・ライフと倫理~安楽死と尊厳死を中心に」より。この内容の完全版は、当社より刊行の書籍『「生きる」を考える〜自分の人生を、自分らしく』に掲載されています)
連載のはじめに・バックナンバー
講義を振り返って
担当教授:長江 弘子
(前・千葉大学大学院看護学研究科特任教授、
現・東京女子医科大学看護学部看護学研究科教授)
足立先生との出会いは、5年前に亀田総合病院で行われた市民向けの講演会でご一緒にしたときでした。当時はまだ「エンドオブライフケア」や「終活」という言葉が珍しく、知らない人が多かったと思います。ですが、その講演会は「事前指示書」の意味を理解したり書き方を学んだりするシリーズの一環であり、亀田総合病院の周辺の地域住民の方が50名くらい参加されていました。
参加者がとても熱心だったことに加え、足立先生の講義で安楽死の用語の定義や事前指示書の意味、アドバンスケアプランニング(ACP)、そして「上手に死ぬこと」と「気高く死ぬこと」の2つの意味を含む「Good Death」概念の重要性を教えていただき、私自身とても感銘を受けたことを覚えています。またこのとき、「人」として生きること、いつかは来る「死」について考え自分らしく生きることの大切さを、医療や看護の中だけではなく、多くの学問分野が関わることの必要性と市民の方々といっしょに考えることの重要性を、私自身が一人の人間として学んだ体験でもありました。
このことがきっかけで、足立先生に千葉大学看護学研究科の大学院生へ講義をしていただくようになりました。大学院生に向けては、「自分が出会った患者さんの看護体験を振り返って、よい死を迎えたと思う方を思い出すこと」、そして「なぜそう思ったかという振り返り」から「よい死」「望ましい死」について考える授業を展開していただきました。学生にとっては、他者の死から自分がどう生きたいかを知る、まさに「人間学」であったと思います。
また、普遍教育教養展開科目「生きるを考える」の講義では、生命倫理学の学問的立場から学生に語りかけながら、安楽死や尊厳死のお話をしてくださいました。事例を用いた話は学生にとって衝撃的であり、日頃考えることのなかった20代の死について見つめ、「生きる」を考える時間となったように思います。
生まれてから死までを生きる、それは人間として生を受けたときからの定めです。しかし、健康でいるとき、若いときはあまり死について考えることもなく、健康や若さが当たり前のように続くと考えています。身近で死別を経験しなければ、いつまでも「第3者の死」かもしれません。また専門職となれば日常的に他者の死と出会うことでどこか冷静に向き合わなければと縛られ、いつしか「第3者の死」とすることに慣れてしまうかもしれません。
ですが、私たちも一人の人間として生きること、生きていることを自覚し、当事者性を取り戻しつつ、自分がどう生きたいかを考えることが、人生の始まりになるように思います。それはきっと専門職だからすることではなく「人」として生きるためなのだと思います。足立先生の優しい温かな微笑みの奥にある深い真摯なまなざしが、講義を受けた学生たちに、人との関係の中にいる自己と、他者と豊かなひと時をもつ大事さを伝えていると感じています。
『「生きる」を考える〜自分の人生を、自分らしく』(長江弘子編集、日本看護協会出版会、2017年6月20日刊行)
エンドオブライフケアを考える
すべての方へ
第1章:人間の生と死
第2章:人生と出会い
第3章:病とともに生きる人生
第4章:暮らしと医療
「生きる」を考えることは……自分の人生を自分が主人公になって切り開き、主体的に創りあげていく姿勢や態度であり、原動力であろうと思います。人と人とのかかわりの中にある生と死を学ぶことそのものではないかと思います。(長江弘子「発刊に寄せて」より)
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