第9回[現代哲学4]

病とともに生きること〜 哲学者は医者か病人か

── ニーチェ

 

 

看護や医療の領域にとって哲学はどういったかかわりが持てるのか、どのようなアプローチができるのか、そのことをテーマに毎回、1人の哲学者の考えと生き方に焦点を当てて、あれこれとお話してきました。今回は特に病との向き合い方について、1844年生まれの哲学者ニーチェから学んでみましょう。

 

ニーチェの現代性

 

番外編「漫画とアニメにみる〈哲学〉では、『ニーチェ先生』という作品(松駒作・ハシモト画、メディアファクトリー、2013年~)に触れましたが、ニーチェほど、漫画という表現形式にふさわしい哲学者はいないのではないでしょうか。

 

もちろん、まだテレビもインターネットもスマホもない時代でしたが、それでも彼の文章には「現代性」が感じられ、私たちの生き方や考え方との距離がそれほど離れていないと思えたり、少なくとも同じ土俵にいるという感覚があります。日本で言えば、1867年生まれの作家・夏目漱石の作品が持つ「現代性」と似ているかもしれません。

 

ニーチェと言えば「神は死んだ」という言葉で有名ですが、伝統的な価値観(例えばキリスト教的世界観)が揺らぐ中で、何か別の強固な価値観に寄り添ったり、それを新たに生み出したりするのではなく、不安定な状態にいることを受け入れてその渦中で強く生き抜こうと試みたことが、私たちの置かれている状況と相通ずるのかもしれません。時代の持つ雰囲気の共通性によって、ニーチェの言葉は私たちの心に響いていると言えるのでしょう。

 

そういえば『ニーチェ先生』の中に、彼にやや偏執的に恋慕する女性が登場します。日々、仁井智慧(にい・ともなり)が働いているコンビニに通っているのですが、彼女の職業は看護師です。これも何かの縁なのでしょうか。そもそも彼女は、一体ニーチェ先生のどこに惹かれているのでしょうか。気になる方は是非作品をお読みください。

 

ニーチェとは何者なのか

 

「哲学者」と聞くと皆さんはどうしても、究極の真理を会得した人物、例えば『ニーチェ先生』の副題にもあるような「悟り」を切り開いた人物、という期待を抱かれるかもしれません。ですが本当はむしろ逆で、哲学者こそが迷いだらけ、矛盾だらけで究極の混沌世界に生きているように思います。しかもその渦をつくりあげた(かきまぜた?)代表的人物がニーチェであると言えます。

 

彼も一時期は、自然科学的な認識に一つの普遍的な真理を見ようとしていた時がありました。最初から毛嫌いして非難していたわけではないのです。心理学や生理学といった実証科学的な方法論に依拠しようとしたのですが、間もなくして断念し「これは違う」という結論に至ります。自然科学的な方法論も、あくまでも一つの方法(一つの価値観)にすぎず、結局、現代社会とは「価値相対」の時代であり、さまざまな価値観がせめぎあっているにすぎない、ということをニーチェは早々と感じとったのです。

 

また、今回ニーチェを取り上げた理由ですが、フロイトとラカンが「医者のまなざし」を持った哲学であるとすれば、ニーチェの場合は「医者のまなざし」を持とうと志しながら結果的には「病者のまなざし」を抱えた(それもポジティブに)哲学ではないか、と考えられるからです。

 

この連載では「現代」哲学という枠組みで、第6回には1926年生まれのフーコーを、第7回には1930年生まれのデリダを、そして前回は、1901年生まれのラカンを通じて1856年生まれのフロイトをそれぞれ取り上げました。同様に今回は1925年生まれのドゥルーズを通じて1844年生まれのニーチェを登場させます。時間軸には沿っておらず少し混乱するかもしれませんが、少なくともフロイトやニーチェの考えは「現代」に生き続けているように思えます(今回は取り上げませんが、アルチュセール〈1918-1990〉によって新たな命が吹き込まれたマルクス〈1818-1883〉もまた「現代」の哲学者であると言えます)。

 

G.ドゥルーズ Gilles Deleuze1925-1995  フランス ベルクソンの生命論哲学を現代に拡張・再生させたこと、精神科医のガタリとの共著で特に注目を浴びた。フーコーとのあいだに厚い交友があった。病弱であったこともあり、生涯、パリから離れることはほとんどなかった。熱烈な映画ファン。自宅アパートの窓から飛び降りて亡くなる。

 

近現代の哲学者の中でも、群を抜いて「哲学者」らしい人物と言えば、やはり真っ先にニーチェの名前が挙がります。その理由は何よりも「超人」や「永劫回帰」といった挑発的な概念を打ち出したからでしょう。生まれたのは、日本で言えば江戸末期の1844年、亡くなったのが20世紀目前の1900年ですから、明治初期に活躍した人物ということになります。かなり若くして大学に職を得ますが、最初の自著の評判が芳しくなったこと、体調を崩したこともあり、早々と切り上げて療養と執筆活動に勤しみ、晩年には(と言っても40代ですが)認知症が進行して病床に伏し、そのまま短い生涯を終えます。

 

本人曰く「人生は3度の変化を起こす。最初はラクダとして、続いてライオンとなり、さらには子どもに転じる」。これをニーチェの実人生にあてはめてみれば、大学教授になった頃までがラクダであり、そのあと執筆活動に入った時期がライオン、晩年は子どもになったということになるのでしょうか。

 

病に満ちた人生

 

生涯、ニーチェはさまざまな病気に罹りました。どういった病気と向き合って生きてきたのか、少し細かく見ておきましょう。にわかには信じがたいですが、妹の証言によると幼少期はむしろ健康そうな子どもだったようです。しかし1856年頃、すなわち12歳を過ぎたあたりから視力が下がり、発作的な眼痛(もしくは偏頭痛)に見舞われはじめます。

 

また、1865年にライプチヒ大学に入ってからの話ですが、彼は娼家に出入りしていたことがあったようで、病院で2度ほど梅毒の治療を受けています。

 

怪我もしています。1867年9月、兵役の規則が変更されて、かなり強い度の眼鏡を使用していても志願が可能になったということを知人の士官から知らされます。この頃のニーチェは愛国心に満ちており、10月9日には「1年志願兵」という階級でナウムブルク野戦砲兵騎馬連隊に参加します。ところが翌年の3月には落馬により胸を強打し、療養に入って10月には除隊。大学に復学します。こうしてニーチェの最初の戦争体験は、わずか半年ほどで幕を降ろします。

 

その後は研究に専念し、若くしてバーゼル大学の教員(員外教授)に抜擢されます。かなり異例なことだったようです。ところが1870年7月19日に普仏戦争が勃発し、ニーチェは再び祖国のために従軍を望みます。しかし、バーゼルに赴任するにあたりスイス国籍の取得を考えていたことから、プロイセンの市民権を放棄していたため正規の兵士にはなれませんでした。それでもあきらめきれずに選んだ道は、看護兵として戦争にかかわることでした。8月12日には早々と戦地であるエアランゲン(ニュルンベルク近郊)に赴き、救護活動を行います。

 

もちろん、看護兵といえど戦闘地域にいる以上、苦難の道が待っています。8月29日にはストラスブールに移りますが、すでに現地のドイツ兵はフランス側に包囲されており近寄れません。その後、激戦が繰り広げられているナンシーやメッスの郊外(いずれも現フランス)に赴くも、後退を余儀なくされます。そして、ストラスブール北東にあるカールスーエまで押し戻されたところで、ニーチェは赤痢とジフテリアを発症し、入院となってしまいます。その結果、9月14日にはナウムブルクに戻り除隊を命じられ、10月にバーゼルへ帰還。こうして見ると、看護兵としての経験こそが、彼の生き方や考え方の原点となったのかもしれません。

 

ニーチェはこの頃、それまでとは心境が大きく変わってゆきます。例えばそれまで崇拝していた音楽家ワーグナーとの関係が悪化する一方で、哲学者ショーペンハウアーへの回帰が起こります。病としては、以後、感染症に苦しむほか、嘔吐や胃痛がつきまとうようになります。

 

───────────────────────────────────────

Column 1:看護兵という職務

ナイチンゲールがそうであったように、戦争と看護行為は密接なつながりがあります。19世紀半ば(1853-56年)、クリミア戦争にかかわったナイチンゲールによって、「看護」の役割や立場その他の基本形がつくられはじめたことは、すでにご存じのことだと思います。その後、第一次世界大戦のさなか、1915年には看護の仕事についての規則がつくられ、社会的に認知されます。ニーチェはナイチンゲールより少し後の時代(1870年)に看護兵となっていますが、戦線でどのくらい看護行為を果たしたのかは定かではありません。ただし、そこにいるだけでさまざまなことを味わったのは確かです。

 

ちなみに、BBC制作の英国の人気ドラマ『ダウントン・アビー』(シーズン2・エピソード1、2011年)に、第一次世界大戦(1914-18年)に従軍する「看護兵」が登場します。英国伯爵家に仕える身であった麗しきトーマスが、階級社会が崩れつつある世の中の変動のさなかに活路を見いだそうとして、無事に帰還できる確率が高いと思われた看護兵に自ら志願し戦地に赴きます。しかしそこで待っていたものは、想像を超えた悲惨な現実でした。戦闘行為は行わなくとも「兵」であることには変わらず、激しい砲火を浴びる中で、将来伯爵家を継ぐことになる青年マシューとともに逃げまどいます。誰しもが2人に早く帰還してほしいと願わずにはいられないシーンでした。

 

また、私が子どもの頃に人気を博した漫画作品『キャンディ・キャンディ』(名木田恵子作、いがらしゆみこ画)には、戦争に赴く看護師が登場します。第一次世界大戦の開戦時に米国シカゴの看護学校にいた主人公キャンディは、1915年に診療所で働き始めます。一方、学校時代キャンディと同室だった優等生フラニーは、自らの意志で従軍看護師として参加するのですが、キャンディはその姿をやや距離を置いて見ています。今読み返してみると、キャンディは看護師の仕事に強い思い入れがあったようですが、戦場に赴くこと(戦争に積極的に加担すること)には抵抗があったようです。

───────────────────────────────────────

 

病気はまだ続きます。ニーチェは、1873年にはインフルエンザを患い、その後5~6年ほど偏頭痛や眼痛、胃痛、嘔吐に悩まされ、そのため1879年に大学教授を辞することになります。

 

ところが、1880年に入るとそうした最悪の時期を脱して「永劫回帰」の思想の発見に涙したり、サロメに求婚したり、『ツァラトゥストラはかく語りき 第1部』を完成させるなど、言ってみれば「高揚」の時期を迎えます。しかしそれも長くは続かず、1883年春には鬱気味になって不眠が続き睡眠薬を服用しはじめ、高揚と消沈を繰り返すようになります。この頃には躁鬱病を発症していたのかもしれません。

 

1888年になると、多幸症や躁、誇大妄想の気がはっきりと見られるようになります。翌年、入院して8日間の念入りな検査を受け「梅毒性進行麻痺」という診断が下ります。カルテには右顔面神経に軽度の障害があるものの、言語障害などのはっきりとした病識はない一方で、一貫性なくしゃべり続けることもありました。また場合によっては帽子を床に叩きつけるなど、激情的な行為もみられたことが記録されています。

 

その後、母親の要望により入院することになり、1年2カ月にわたって病院暮らしを行います。記録によれば、自分がどこにいるのかわからない、まとまらない話を延々と続ける、糞尿を塗りつけたり飲食してしまったりする、幻覚的被害妄想が起こっている、と明らかに事態は悪化していました。

 

1890年、病院から自宅での療養に変わり、母親が付き添って面倒をみます。1892年頃には日常生活も完全に自力ではできなくなります。1894年になると、母や妹など普段会っている人物以外の見分けがつかなくなり、翌年にはほとんど寝たままに近い状態となってしまいます。そして1897年、母親亡き後は妹が面倒をみることになりますが、1898と1899年に2度脳卒中を起こし、1900年、肺炎と脳出血によって死に至ります。

 

場合によっては、ニーチェの「病」が、彼の名声を高めたと指摘する人もおり、実際、その後もニーチェと「病」との関係性については病跡や思想変遷などからさまざまな研究が続けられて現在に至っています。それらを大別すると、梅毒を原因として強調するもの、遺伝に注目するもの、眼痛によるとみなすもの、睡眠薬などの薬剤によると考えるもの、心因性(躁鬱)とするもの、内因的なものを重視するものなどが挙げられます。

 

なかでも、近年の研究で極めて信憑性が高いと思われるのは、ヒトの持つ22対の常染色体と1対の性染色体のうち19番目の常染色体上にある遺伝子「NOTCH3」に異変もしくは欠損があることによって生じる「皮質下梗塞と白質脳症を伴う常染色体優性脳動脈症(Cerebral Autosomal Dominant Arteriopathy With Subcortical Infarcts and Leukoencephalopathy:CADASIL)」という難病だったのではないか、という見解です。幼少期からの偏頭痛、壮年期の躁鬱病、脳卒中、晩年の認知症といった彼の生涯の症状全体を、この推測が最も合理的に説明しているように思われます。いずれにせよニーチェは生涯「病」とともに生きた人であり、さらに言えば彼が書き残したものには他の哲学者たちとは決定的に異なるほど「病」の影響が色濃く残っています。

 

しかし、ここで問題が生じます。「病気」(しかもそれが精神に影響を与える)を患っている人の文章は「正常」ではないのだから、内容を正当に評価することはできないことになるのかどうかです。さて、ニーチェの場合はどうなのでしょう。

 

ニーチェの哲学、ニーチェの思考の独自性とは、まさしくこの点について注目したことにある、と言えるのではないでしょうか。すなわち「病」と向き合った哲学であり、「病」の只中にあった哲学であり、そして「病」の中で朽ちていった哲学、それが「ニーチェの哲学」ではないでしょうか。言ってみれば多くの哲学は「健康」や「正常」であることを暗黙の了解事項とし、大前提とし、共有事項としていました。それこそ、ある種の超然とした立場や視点から述べることを保証するものとみなされてもいました。しかしニーチェには、それができません。自分の思考の由来、源泉、根拠に常に不安を抱きながら、常に疑問を発しながら、しかし「病」を否定することなく「病」とともに思考することをむしろ喜びとしようと努めたのが、「ニーチェの哲学」ではないでしょうか。

 

「文化の医者」としての哲学者

 

ところでニーチェには「文化の医者としての哲学者」という言い回しがあります。これはどういう意味なのでしょうか。

 

話は1872年に戻ります。当時『悲劇の誕生』を刊行した後に、ニーチェは「反時代的考察」をはじめさまざまな論評を書いており、創作意欲が極めて高い時期を迎えています。その中にある1873年に書かれた計画書の題名が「文化の医者としての哲学者」です。

 

ニーチェにとって哲学とは文化を創造するものであり、もう少し厳密に言えば、文化を準備したり、維持したり、調整するものととらえられています。また、古代ギリシア哲学に親しんでいた彼にとって、当時、医学的処置が行われていたものの多くが徳的に解決されていた、という思いがあります。すなわち哲学とは道徳の病を治療する役目を担っていたのだと考えていたのです。

 

しかし「道徳の病」とは、一体何のことでしょうか。それは端的に言えば、幸福感を抱けずに不幸や不快、不安、不審、不満といったネガティブな心境に陥っている状態のことです。そうした気持ちや気分から脱却するための手助けができる、それが哲学なのだと考えたのです。いや、むしろ、そうあってほしい、というニーチェの願望がここに込められています。

 

ニーチェの「まなざし」は常に「病(人)」からのものです。言うなればニーチェは自身が「病」に生きたからこそ、哲学にその治療を期待したのです。そのため、懸命に「医者のまなざし」を持とうと強く意識したのですが、結果「病(者)」のまなざし」に振り回される自分に気づき、そこで「価値」を反転させて「病者のまなざし」を全面肯定するに至ったのだと言えます。

 

非常に入り組んだ構造になっていますが、一言でまとめれば、ニーチェの思想は最終的には「病の哲学」であり、「病者」の哲学であり、しかもそれがポジティブにとらえられています。ただしこのことは「裏腹」であり、しかも強がりの心境が見え隠れします。本人は「そんなことは断じてない!」と否定するような書き方をしていますが、私にはそう思えてなりません。

 

───────────────────────────────────────

Column 2:哲学と医療、治療とのかかわり

確かに、ソクラテスが哲学を「助産術」に譬えたことからもおわかりのとおり、哲学と医療は、何らかの親近性があると思います。正直に言うと、ヒポクラテスを筆頭に、医師は哲学を実際的には役に立たないものとして批判的なスタンスをとることがしばしばあります(かつて私は、ある医師から「哲学は所詮文学の一分野にすぎない、つまり実生活には直接役には立たない」と言われたことがあります)が、少なくとも哲学の側からは、かかわりの深い領域であるという認識があります。

 

また、ニーチェと似たようなことを言っているのがウィトゲンシュタインです。彼は、哲学をするということは哲学の「問題」を抱え込んでいるのだと考えます。つまり哲学者は「治療」が必要なのです。したがって哲学の「問題」を解決すると「治療」が終わります。

 

なお、医学者にして哲学者と言えば、精神病理学者だったヤスパースが代表格でしょう。またフーコーは、心理学も学び医療にかかわる言説や実践を批判的に検証したという意味で、ややヤスパースに近いところにいます。そのほか、アフリカで医療実践を行ったシュヴァイツアーは平和論を展開してノーベル賞も受賞しました。彼は生き物すべてに「畏敬の念」を抱いた哲学者でもあり、人間と動物との向き合い方について、非常に重要な論点を提示しています。

───────────────────────────────────────

 

*このあと2ページ目は、ニーチェ哲学の難解なところ(核心でもありますが)を解説していますので「少し難しいな...」と感じた方はぜひ、とくに看護職の方々に向けて書いた3ページ目を先にお読みください。

 

12 3

────────────────────────

自己紹介イントロダクションバックナンバー

────────────────────────

 

fb_share
tw_share
fb_share
tw_share

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会  Copyright (C) Japanese Nursing Association Publishing Company all right reserved.