text by 野間正二
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第二次世界大戦とサリンジャー

 

第一話でも述べたように、第一次世界大戦によるPTSDは「シェル・ショック」という呼び名で語られた。しかしやがて時間の経過とともに、その症状に苦しむ元兵士たちは、社会が早く忘れたがっている迷惑な存在となっていった。第二次世界大戦(1939~1945年)が始まると、当然ながらふたたび神経を病む兵士が多数生みだされた。シェル・ショックという誤認識はなくなったが「外傷神経症」や「戦争疲弊」「戦争神経症」などと呼ばれるようになった(以後、これらもPTSDと記述する)。

 

その第二次世界大戦の戦場で戦い、戦闘によるPTSDに関心を寄せた作家がいる。J・D・サリンジャーである。1942年に陸軍へ入隊して1944年6月のノルマンディ上陸作戦に加わった彼は、その後も数々の激戦を経験し、1945年5月にドイツ軍が降伏するまでヨーロッパ戦線で戦った。そして休戦後の1945年7月、ニュールンベルクの病院に神経症で入院した。同年11月に除隊して、翌年5月に米国へ帰国した。

 

1951年には、現在までの発行累計が6,500万部以上にのぼる長編『ライ麦畑でつかまえて』を出版し、一躍人気作家になった。しかし翌々年の1953年に、田舎町コーニッシュに約11万坪の広大な土地を買って隠遁生活を始めた。1965年までは作品を発表していたが、それ以降は沈黙してプライバシーをかたくなに守りつづけた。55年間にわたる彼のこの完ぺきな隠遁状態は、見方を変えれば、PTSDの症状の一つである「引きこもり」だと考えることもできるだろう。

 

 

  Jerome David Salinger(1919 - 2010)1940年に短篇「若者たち」でデビュー。第二次世界大戦時に志願して陸軍に入隊、1944年のノルマンディー上陸作戦に参加した。従軍中も短篇小説を執筆し続け、戦後の1951年に長篇小説『ライ麦畑でつかまえて』を刊行。現在に至るまで全世界で大ベストセラーとなるが、1953年に『ナイン・ストーリーズ』刊行以後は隠遁生活に入る。2010年1月、老衰のため死去。

戦場でPTSDを発症し、入院した経験をもつ作家として、彼は戦争が生みだす心の失調には当然深い関心をもち、そのことを題材にした作品も書いている。たとえば、よく知られた短編に「バナナフィッシュに最適の日(1948年)がある。

 

この短編の主人公は帰還兵士シーモア。時代背景は終戦から約3年が経った1948年ごろ。シーモアと若い妻ミュリエルはフロリダ海岸の高級ホテルに2日前から滞在している。シーモアの休養のためだ。戦争で心が傷ついた彼は、陸軍の病院に入院していたが、退院して帰国した。しかしPTSDは完治しておらず、妻の待つ家に帰還後も奇妙な言動を繰りかえし、ミュリエルの両親を心配させている。両親は陸軍がシーモアを退院させたのは「完全な犯罪行為だ」と信じていて、娘に離婚を暗に勧めている。

 

妻のミュリエルはというと、シーモアの苦しみに対して思いを致そうとはしない。そればかりか、ホテルに来てから、連日一人で夜遅くまでホテルのバーに入りびたっている。彼女が昼まで眠っているから、その日、シーモアは午後から海水浴に一人で出かけている。二人はホテルに来てから別々に行動しているのだ。繊細さに欠けるミュリエルは、PTSDに今も苦しむシーモアをそんなに心配もしていないし、深い注意も払っていない。

 

そのシーモアが、ビーチからホテルの部屋に戻ってきて、再び昼寝しているミュリエルのベットの隣で、唐突かつ冷静に、こめかみを撃ちぬいて拳銃自殺する。しかし、作者はそんなシーモアの心のなかについては徹底して語らない。読者はなぜ彼が唐突に自殺したのかわからない。この謎は作品解釈のキイとなる謎である。だからこれまで、さまざまな解釈が生まれてきた。シーモアが、足の指が6本あるのを少女に指摘されたからだ、というトンデモない解釈すらある13)

 

ところで、この作品を解釈するうえで参考になる事件が、第一次世界大戦終戦から3年後の1921年8月30日にニューヨークで起きている14)。36歳の退役少佐ヤングは、妻と友人夫婦と一緒にニューヨークへ遊びに来ていた。29日の夜、4人で芝居を楽しんだ。翌日の朝は「気分良好な」状態で起き、昼前には市内に住む母親とも会っている。しかし正午過ぎにホテルを出ようとしたとき、連れに「ちょっと失礼(Excuse me.)」と言って脇に避け、拳銃で自身のこめかみを撃って自殺をはかった。唐突で謎めいた行動だった。

 

当時の新聞は、ヤング少佐がその頃「シェル・ショック」に苦しんでいたことを報じている。当時それがもとで元兵士が唐突に自殺するケースがあることが、ある程度の共通認識としてあったのだ。しかしそれから30年近く経った1948年頃には、世間からすでに忘れられていた。そのことを「バナナフィッシュに最適の日」は描いている。シーモアの死が謎めいた唐突な自殺として、何の説明もなく、ただ、ごろりと読者の前に投げだされている。

 

サリンジャーは、ごろりと投げだすことで、当時の社会が忘却していたこの事実を作品のなかで訴えている。自身がPTSDに苦しんだ経験をもつ者として、妻のミュリエルや彼女の両親に象徴されるような、元兵士の苦しみに関心をほとんど払わない人びとや、彼らを排除しようとさえする者たちがどれほど非人間的であり、許せない人びとであるかをも描いている。生きて帰ってくることができても、まわりの人間のせいもありハッピーになれなかった元兵士の姿を、彼は描いているのだ。

 

サリンジャーは自身のPTSD体験をすぐれた文学作品として結晶化した作家だ。しかし、世間はPTSDに苦しむ元兵士たちの存在をしだいに忘れていった。「バナナフィッシュに最適の日」の前述したトンデモないものをふくむさまざまな解釈の出現が、そのことを端的に証明している。

 

 

  

教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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