連載 ── 考えること、学ぶこと。 "共愉"の世界〜震災後2.0 香川 秀太 profile

image: Center for Disease Control and Prevention

後篇/第9回 "Post-COVID-19 Society" グローバル資本主義のあとに生まれるもの 「マルクス&エンゲルスの〈予言〉、そして交歓」

連載のはじめに

 

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第8回で取り上げた柄谷による世界共和国論以外にも、歴史的兆候を読み取り、未来社会を提案する諸理論があります。これらに触れて、さらにPostCOVID-19 Societyの可能性を考えてみましょう。

 

ストライキ、暴動、そしてマルチチュード

 

コロナ問題によるさまざまな国家や行政による制限は、それに不満を持ち自由を求める民のデモや暴動やストライキに繋がる可能性がある(現にそれは各地で起こった)と前篇で述べました。しかし、社会運動には別の可能性もあります。哲学者ハート&ネグリが提唱するマルチチュードの議論をもとに、次の未来社会の方向性を取り出してみたいと思います。

 

なお、マルチチュードとは、あらゆる差異を自由かつ対等に表現可能な開かれた民主的なネットワークのことを言います。それまでの米国主導で国際社会が進む帝国主義に変わり、昨今は、主要な国民諸国家や超国家的制度、主たる資本主義企業らが形成する権威的なネットワークが世界を主導する<帝国>時代が誕生しました。そのような<帝国>時代の中で、別の種類のネットワークもまた並行して生まれた。それがマルチチュードです。

 

マルチチュードは、中枢による管理ではなく、多様な人々が<共>(例えば、共通のシンボル、言語、アイデア、情動、関係性)を通して、自由につながりあう多数体を意味します。このとき、<共>が軸になって人々が連帯するからといって、個々の特異性が共同体の規範や統一性の下、抑圧されることはない。むしろ、<共>が発達すると同時に、自由に自己の特異性も表現され、発達していく。<共>と特異性とが螺旋的に交わり増幅していくのがマルチチュードの特徴です。

 

ネグリらは、戦争、貧困、社会運動等を概観し、さまざまな領域で発生しつつあるマルチチュードの萌芽を示しています。例えば、99年のシアトルにて、それまで対立関係にあった労働組合、環境保護活動家、教会関係者、アナーキストなどの異なるグループが行動を共にし、周囲を驚かせた社会運動をあげています(同時にその限界も指摘しています)。

 

先の柄谷が世界共和国をポスト資本主義の在り方として提唱したとすれば、ネグリらは、このマルチチュードを提唱しています。

 

さて、コロナ問題に話を戻しますと、外出の自粛や禁止による「経済活動の停止・減退」という事態のみを取り出してみると、それは同じく「経済活動をしない」という、労働者が起こすストライキとの類似性が指摘できます。

 

もちろん、ストライキは労働者が自ら起こすものであって、今回の感染症によるロックダウンや外出制限のように行政が主導する状況とは根本的に違っています。しかし、共通点もあります。ハート&ネグリ(Hardt & Negri, 2017)は、ストライキと暴動について興味深いことを論じています。

 

まず、ストライキは、「仕事を行わないことによる、資本主義的生産の急停止」であると述べています。次に、ストライキが労働組合の労働者が行使できる力であるのに対し、その権限すらない失業者や貧困層がとりうる最後の手段が暴動であると述べます。そして、社会学者パイブン&クローワードの言葉を引用して、「一部の貧困者」は、「時折、重要な制度的な参加から孤立しているので、彼らが停止することのできる唯一の「貢献」が、市民生活の不活性である──つまり、彼らは暴動を起こすことができる──」と述べます。

 

もちろん、一般的に考えれば、ストライキはともかく、暴動とは社会秩序の混乱を招くものであり、受ける側からすれば暴力であり、避けねばならないことでしょう。しかし見方を変えれば、暴動する側もやむなく命がけで行うものであって、追い詰められた側が自らの主張や感情や立場を社会にアピールすべく行使する最後の手段ともいえるものです。そして、ハート&ネグリはこの二つを(やむなく自らの犠牲やリスクをなげうって行われる)「拒否の力」であると可能性を見出そうとしています。

 

「……拒否の力が、社会的領域を横断して広がる。社会秩序の混乱と、資本主義的生産の停止とが、見分けがつかない形で結びついていく。これが、まさしく、ソーシャル・ユニオニズムがひらくポテンシャルなのである:二つの伝統──いまや、<共>に本拠地を置く、産業生産を中断する労働運動と、社会秩序を混乱させる社会運動との両方──が一体となり、そして、化学試薬のように爆発性混合物を生み出す。事実、この文脈では、あらゆる生産セクターの労働者がやめるであろう、一般的なストライキの伝統的概念が、同時に、新しく、さらにはよりパワフルな意味すら獲得するのである。」

 

そして、次のように述べます。

 

「しかしながら、社会的ストライキは、拒否だけでなく、肯定でもなければならない」と。

 

つまり、ストや暴動は、単に既存の経済活動を停止させ、混乱させ、異を唱えるネガティブな拒絶だけでなく、協働関係を生かし、それを前向きな方向で再構築していくものである(その方向に向かうべきである)と主張します。

 

一旦、停止される経済。その後、それを単に元通りに戻すのではなく、新たな自律的で協働的なネットワークの創造へと向かわなければならないと主張しているのです。実際、これまでも述べてきたように、コロナ問題による経済の停止は、半ば強制的にさまざまな地殻変動をおこし、社会変化を促します。1)労働と生活の境界の溶解、2)都市部の脆弱性の露呈(地方の魅力)、3)文化や習慣の見直し、4)経済停止による社会福祉の問題点の露呈(保険制度、医療体制、格差・貧困・差別)、5)国家及び地方行政と民の関係の問い直し、6)国際関係の見直し、7)自然と人間の関係、および科学と社会の関係の問い直しなどです。

 

もちろん、ストライキや暴動もまた、一地域で一時的に発生するものです。しかし、繰り返しになりますが、今回のコロナ問題による意図的な経済停止は、世界同時多発的な事態です。この特徴をふまえ、彼らが言う「否定だけでなく肯定」の方向性、つまり「既存の協働関係を生かし、それを前向きな方向で再構築」していく方向性を探るべく、もう少し彼らの主張を発展的に言い換えてみたいと思います。より暴力的な側面も減ってくるはずです。

 

それは、「新型コロナウイルスと人類の危機」という、世界規模で人々が乗り越えようとした共通の対象、すなわちマルチチュードの概念で言うところの<共(the common)>を、「自然と人類とがいかなる共生(協働)関係を形成するか」という<共>へと発展させ、そして、それを可能にするものとして、さまざまな特異性※注を位置づけ、種々の特異性の間を結合させていく方向性です。

 

※注:ここでは,特異性(singularity)という用語を,「その存在(生物,非生物,人間,非人間含めて)“ならでは”の何かであり,相対的に出現し,相対的に変動する性質」の意として用いる。人間関係でいうと,人柄の明るさも大人しさもそれぞれ特異性といえるが,いずれも相対的である(明るいと思われていた人も,より明るく陽気な人が周囲にいる状況では,相対的に大人しいという印象に変わるかもしれない)。また,どのような環境に置かれるかによって,可視化される特異性は異なってくるし,他のどのような特異性と結合するかで姿かたちや意味は変容もしていく。人だけでなく,例えば,段ボール,貨幣,紙,スマホ,微生物といった他の生物や非生物にもこのように,相対的に出現し変動する特異性がある。例えば,不要になった段ボールは,普通はゴミとして意味付与されそう扱われるが,アーティストやDIYの技術や知識といった他の特異性を結合することで,財布にも滑り台にも椅子にも変異しうる(例えば,段ボールアーティストの島津冬樹の取り組みを参照されたい)。

 

「新型コロナウイルスと人類の危機」という<共>だけでは、短期的であり、人類に閉じた人間中心主義的な対象設定ですから──そうである以上は、これまで通り人間による自然の統制と消費のための自然搾取の社会構造が続く──、それを、共生という<共>へと展開させていく必要があります。

 

<共>の発展に寄与する特異性には、これまで開発してきた技術も含まれますし、貨幣も含まれるでしょう(したがって、経済を完全に放棄するということではなく、あくまで地位の転換ということになります)。

 

例えば、100%ではむろんないにせよ、「世界同時に経済を停止(放棄)」することが起きるとして、その時に、国家間だけなく、民の間で、資金の枯渇した国や地域、あるいは、資金がより必要な医療関係者や他のエッセンシャルワーカー※注や被害の大きい困窮家庭、あるいは彼らをバックアップする組織やプロジェクトにお金が届くような寄付や再分配やシェアの行為が、世界同時的に発生・拡大し、国境を超えた国際的な運動にまで発展するようなことが起こっていったとするなら次の意味を帯びます。

 

※注:医療関係者だけでなく,スーパーの店員,宅配員,交通機関のスタッフなど,コロナ問題において,人々の生活を支えるのに自宅外で働く労働者のこと。

 

それは、国家による上からの再分配政策の限界を、国民(下)同士の水平的かつ自律的な協働によって超えようという運動の出現であり、「自己利益のための貨幣」という従来の貨幣の地位を世界規模で転換していく動きの出現という意味です。

 

世界的な経済成長の減退とともに、この種の運動がひろがっていくようなことがあれば、世界規模の連帯が目に見えて発生するかもしれません。

 

最初から国家同士でやれというかもしれませんが、国は補償に関してさまざまな矛盾を抱えるものです。我が国での給付策を見ても、一律給付ならば、高所得者にもお金が配分されてしまう。他方、所得制限を設ければ高所得者にはお金が配分されないが、手続きが煩雑になって本当に必要な困窮者にお金が届くのがますます遅れていく。よく指摘される矛盾です。

 

後述のマルクス&エンゲルスのところで触れますが、この給付策に限らず、そもそも国の施策というのは、ローカルな国民の実情と必ずと言っていいほどズレてしまう特性があります。よって、より自分たちの実情を知る各国民自らが動くことで、その限界を補うことができる。

 

現に、社会企業やNPOの活動の中には、そのあたり非常に上手に創造的に考えながら工夫されている方たちもいらっしゃいます──例えば、以前調査させていただいたコミュニティナース・カンパニーでは、さまざまなユニークな具体的な試みや実験的アイデアが試みられています※注 ──。

 

※注:コミュニティナースについて詳しくは,矢田(2019)を参照されたい。また,本団体のHPにて筆者の寄稿文(香川,2018b)も掲載されているので参照されたい

 

国をまたぐ寄付になれば、もちろん,民同士の財の寄付やシェアであってもズレは生じうるものですが、国よりもズレはおさえられ、かつ、他国や他で行われている諸活動に民自身が関心を持つことにもつながります。あるいは、他国間が難しければ、国内でこの動きが広がり、似たことが世界各国で起これば、近い動きになります。

 

また、何より民自らが自律的に動いたというこの流れこそが世界を変えうるものです(そしてその自律的なネットワークの展開こそ、マルチチュードのポイントでもあります)。命がけで働くエッセンシャルワーカーの負荷を軽減し、彼らの「万が一」のストライキを避けるためにも(そのストは経済停止だけでなく生命停止を意味します)、国家だけでなくより多くの人々のバックアップが必要とされます。

 

むろん、とりわけこれまで募金以外の寄付経験の殆どない方ほど、この動きはとりづらいかもしれません。あるいは、国内は可能でも、国境を越えてこのような活動を進めることはより困難かもしれません。

 

しかし、これも他方の現実として、コロナ問題以前からすでに「贈与の連鎖」という現象を、あちこちでローカルには生み出してきた実績が我々にはあります。例えば、先の相模原市藤野町ではそのような取り組み──正確には、贈与を超える取り組み──が意識的に行われています(香川、2019参照)。すなわち、すでにその萌芽は現実に散在している。それを育てていけばよいのです。

 

実際、一律給付の前の段階で、特定非営利活動法人ジャパンハートが実施した医療従事者にマスク届けるというクラウドファンディングのプロジェクトが、4月15日開始後に約21時間で1億円に達し、これが国内史上最速であったという事例が話題になりました。他にも数々のチャリティが発生しています。こうした医療関係のプロジェクトだけでなく、(誰でも参加しやすい入り口としての)クラウドファンディングには、さまざまな社会貢献活動を行おうとしている団体が支援を求めています。

 

他方で、お金の寄付行為だけでどうにもならない限界もありますし、クラウドファンディングも仲介する運営側への手数料が発生し、これに対するいろいろな声もあります。ただ、さまざまな社会活動を知り、関わる入り口の一つとして、選択肢になりえるものですし、自宅待機の国民や対面的交流に制限がある状況の下で可能な数少ない運動の一つではあります。そして、クラウドファンディングに限定する必要はありませんし、(オンライン上の)別の社会活動に参加することからはじめてもよいのです。

 

もし自分が希望するものが周囲にないならば自ら創ることにチャレンジしても良いですし、実際、新しい取り組みはさまざまな人たちによってどんどん試みられていくでしょう。現に原発事故後、さまざまな新しい社会活動や地域活動や社会企業やNPOが生まれていったのでした。社会的危機状況は、その負の側面の反面、人々にこれまでの前提を問い直させ、新しい試みを生み出すトリガーなのです。

 

コロナ問題という全国民共通の、あるいは国際的危機という普遍的な危機であるからこそ、これまでの国際関係、国家と民の関係、そして、民同士の関係を質的に変えていくポテンシャルは大きい。

 

つまり、この危機を契機に贈与や互助の活動がより広がっていけば、社会活動への社会的認知や理解が拡大し、自らがそれを実践したいという人や団体もますます増えていくでしょう。コロナ禍を通しての、より良い社会形成につながっていくはずです。拡大させる必要があるのは、「市場」だけではなく、このような「連帯場」です。

 

日本の国家は当初、給付金が貯蓄に回ってしまうことを懸念し、一律給付の決断が鈍りました。つまり、政府は生活困窮者の支援策としてだけでなく、経済活性化(消費に回ること)も期待していたはずです。

 

しかしここで、国から再分配された資金を、その国の密かな目論見を良い意味で裏切って、我々の多くが、支援が必要なところや社会活動にシェアを進めていったとしたら、そしてそれが国にとっても大きな力になっていったとしたら、国民同士だけでなく、国家と国民の間に新しい信頼関係が生まれていく可能性もゼロではありません。

 

「社会不安から貯蓄に回す」「消費する」だけでなく、「社会不安から社会活動の発展に回す」という流れをほんの少しでも生んでいく。さすれば、下記で述べるような、国家の施策と国民の実情との矛盾を超克していく一つの道を切り開くことにもつながっていきます。国にとっても「大部分が貯蓄に回るのではないか」と恐れることから、「国の限界を国民が補ってくれる」「より国民目線(ローカリティ)に即した形でお金を回してくれる」という選択肢が生まれるかもしれません。

 

もちろん、この厳しい状況では貯蓄は多くの人が必要とするでしょうし、消費によって助かる企業もあるでしょうから、給付金の全額でなくとも、一人ひとりがほんの一部でも社会活動に回せばよいのです。それでも、金額面だけでなく社会活動に関心を向けることとなり、連なって、たくさんの可能性になります。

 

なお、これまで「贈与」というわかりやすい言葉を使ってきたのですが、実はこれは、他者への金銭等の贈与ではありながらも、単に「他者への贈与」、つまり自分が持っていたもの(お金)を善意で相手に渡す(純粋に贈与する)という行為(を強いるもの)にとどまるものではありません。既述の通り、贈与は表向き、社会的に望ましく感じられるのですが、限界もあるからです。

 

「互いの命を守る」という<共>に対する(貨幣という特異性の)贈与なのであって、自らに返ってくるものでもあり、自分と他者の関係性、あるいは自分と社会との関係性をこそ、変えていく行為といえるものです。もっと言えば、一方向的に他者に与える利他的贈与というよりも、新しい社会を創造すること、その創造活動への「参加」です。

 

つまりは、「自己も他者も含めた社会をよりよく動かすこと」に自らが参加することであり、それによって「他者と共に自らも歓ぶ」という歓びの交わり、いわば「交歓」と言えます。それでこそ、一時的な贈与にとどまらない、そして、「他者のため」という偽善や美談に終わらない、自己と他者の隙間を埋め、結び付ける持続的な活動になります※注

 

※注:例えば、プロボノの活動からはその様子が実際に見られる(藤澤・香川、印刷中)

 

全く知らない活動や人に対してでも、人は「自らが関わっていく」ことで、意図のあるなしに関わらず次第に関心を持つようになるものです。粘土も自らそれを加工して、作品になっていくことで愛着がわき、自分の延長線上にある存在として感じられるようになります(粘土細工は、自分そのものではなく、自分の身体の外部にある物体にすぎないにもかかわらず、それを周囲から褒められたら嬉しく感じ、逆にけなされれば傷つくでしょう)。

 

コミュニティもそうです。地元愛もそう。たまたまそこに生まれただけ、たまたま近くにあっただけのものかもしれませんが、自らがそれらと関わった歴史性を通して、自分の延長線上にある存在になります。子育てで喩えれば、単にわが子と血や遺伝子で生物学的に繋がっているから、子への愛が「ある」のではなく、子どもに関わり、子育てに自ら参加し、それにより子供が育つ姿を見ることで、子どもへの愛着、子どもとの繋がりが芽生えていきます。

 

すなわち、子育てとは、完全に親自身のため(自己のため)のものではないでしょうし、完全に子(他者)への奉仕(贈与)精神で行うものでもないでしょう。もしどちらかに偏るならば、何か問題が生じてしまうかもしれません。子育てとは、親と子との「あいだ」にあるものなのです。

 

このように、交歓とは「交わる歓び」であり、自分と世界の「関係性」という<共>を変え、それを形成していくということです。自身の歓びも生み出すものが交歓です。

 

技術や貨幣が、共生関係という<共>へ贈与するものと位置付け直されていくこの交歓に対し、これまでの世界システムでは、技術や貨幣とは、「自己利益獲得のシステム」という<共>へ贈与する特異性であったといえるかもしれません。あるいは、「貨幣の力の拡大」そのものが<共>でした──正確には、これらはネグリらが言う<共>とは異なるのですが、ひとまずあえてそう言ってみます──。

 

そして、このコロナ問題を機に、我々は、これまでは目的化され、中心化されていた貨幣の地位を脱中心化し、転換していく機会に直面しています。私たちにとって、経済とは何だったのだろう、どう付き合っていくべきなのだろうと、世界規模で考える機会に直面しているのです。

 

言い換えれば、人間同士における「自己と他者(社会)」との、あるいはこれ以前に述べた「自然と人類」との共生関係を<共>と位置づける機会に直面しています。そこでは、貨幣は、その<共>を発達させる(他にも多々あるうちの)一つの力(にすぎないもの)として、副次化される形で位置付け直されます。今回は主に寄付を例にあげましたが、この<共>と特異性の関係は、決して寄付に限定されるものではありません。

 

このように述べたところで、貨幣獲得を中心としないシステムなど考えられるのか、絵空事ではないのかと疑問を持たれるかもしれません。しかし、例えば、かねてより世界各地で発生していた地域通貨の試みは、同じ貨幣でありながらも、人間の互助関係や自然との共生関係を促すための交換システムの創出の試みです。地域通貨は、各地域の人々が自ら創るオリジナルの通貨です。それは、その地域でしか出回らない(使用できない)通貨のため、周辺から中央に経済が流れていく動きに歯止めをかけます。

 

地域通貨は、儲かるビジネスの対価としてよりも、地域のコミュニティや互助関係や自然との共生活動への対価として支払われます。また、地域通貨には使用期限が設けられることで、蓄積(による格差の出現)ができないようにもなっています。もちろん、これも結局は、既存の資本主義経済のインフラの中で実施せざるをえないため、現実には、継続や広げていくことの困難さも生じていますが、その一方で継続・拡大に成功し、さまざまな波及効果を生んでいる地域もあります。

 

また、現在は、ブロックチェーンの仕組みや仮想通貨は、やはり資本制の舞台に置かれてしまっていて投機の手段になっていますが、投機という自己利益目的ではなく、人-人、人-自然の共生という<共>を発達させる特異性へと転換することも可能そうです。事実それに近い動きは、すでに「PEACE COIN」の取り組みでみられるように、「地域通貨の電子化」という新たな試みがなされています。こうしたチャレンジを、失敗を恐れず多くの人たちが実践していくための仕組みや気運ももっと生んでいく必要があるでしょう。

 

地域通貨のように、国家通貨に代わる新しい経済システムの創出でなくとも、既述のような、国家と国民、国民同士、さらには国際関係における寄付やシェアの取り組みもまた、自己利益目的とは異なる形での、貨幣を循環させるシステム(関係性=<共>)の創出といえるものです。

 

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連載のはじめに

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教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

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