連載 ── 考えること、学ぶこと。 "共愉"の世界〜震災後2.0 香川 秀太 profile

image: Center for Disease Control and Prevention

前篇/第3回 "Post-COVID-19 Society" グローバル資本主義のあとに生まれるもの 「経済 vs. 生命」

連載のはじめに

 

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噴出する矛盾

 

世論も真っ二つに割れます。

 

一方の極では「外出や対面の自粛や禁止措置をとることによって、経済がかえって大打撃を受け、生計が成り立たなくなる」と、日本や世界の情勢を危惧する見解が盛んに示されました。各方面の識者の中には「そもそも単なる風邪の一種である」「騒ぎすぎである(から経済を動かすべき)」「どうせ多くの人が感染するのだから経済を止める方が被害が大きい」といった声もありました。私の周りでも、感染拡大の兆候が見られて間もない頃は特に、そのような見方をとる方は決して少なくありませんでした。メディアや世論が騒ぐほど、むしろそこから距離をとろうとする姿勢になる声が出てくるのは、むしろ自然かつ正常かもしれません。

 

他方の極では、「新型コロナによって、アメリカでは100万人、日本では10万~60万人近くが死亡する可能性がある。さらには、全世界でいえば、第二次世界大戦の死者、数千万人に匹敵、ないしそれ以上の死者を出す可能性すらある」とウイルスによる直接的な身体的、健康的損害に重点を置く声も当初から示されていました。仮にもし世界の総人口77億人のうち6割が感染し、そのうち1%でも(0.1%であっても、あるいは母数をもっと少なく見積もったとしても)死者が出るならいったい何人になってしまうのか。このような計算があながち大げさではないことがわかります。

 

さらに、過去、たとえば1918年のスペイン風邪では、第一波よりも第二派にて若い方が多く亡くなったという歴史を振り返れば※注、そしてもし時間とともに強毒化への変異が起こったり、あるいは自然災害等、その他のネガティブ・アクシデントが重なったりしていけば、長期的にはもっとひどい状況に向かう可能性すらあります。

 

※注:国立感染症研究所感染症情報センターHP

 

盛んに議論されているのは、このような「経済的危機」と「生命上の危機」との間の葛藤をどのように調整していくか、あるいは両方のリスクを低減していくかという問題です──実際、たとえば国際政治学者の三浦瑠璃氏は、拡大当初の3月頃、メディアにて「(経済的な)命と(生物としての)命と」の葛藤というわかりやすい表現をされていました──。

 

この矛盾を象徴するのが社会運動です。一方では、「経済活動の自由」を求めるデモが発生しました。たとえば、自宅待機命令やロックダウンの続いたアメリカでは経済活動の再開を求めて各地でデモが起きました。ブラジルでは一部の州が実施する都市封鎖や外出禁止といった隔離措置に反対する運動が起こり、それにボルソナーロ大統領が参加したそうです。

 

他方では逆に、仕事に行かない運動、つまり「命の保証がないのに仕事はできない」というストライキも世界各国で起こりました。イタリアでは医療従事者の労働組合が安全策に不安を持ってストを起こし、アメリカでは、労働組合とは独立して自ら起こすいわゆる山猫ストライキも起こったそうです。その後さらに情勢が不安定化し、民衆の不満が蓄積されれば、社会運動や暴動が激しくなっていく可能性もあります。

 

このように、国家の次元だけでなく、民衆が権力に対抗する手段としての社会運動もまた、真っ二つなのです。

 

社会の変化を見定めていく

 

では、この「経済 vs. 生命」の矛盾を乗り越える方法としてどのようなものがあるのでしょうか。

 

第一に、当然にして効果的な治療薬やワクチンの開発があげられます。しかしこれには時間がかかり、拡大したばかりの時期は特に、そもそも開発可能かすら不明です。周知のとおり、アビガンやレムデシビルなど既成薬の中で効果が期待できるとされているものもありますが、これも検証に必要な時間や副作用等のリスクもふまえれば、感染拡大後すぐというわけにはいきません。

 

第二が、経済活動を制約して、その分失われる収入を補償すべく、国家が再分配を強化することです。これは多くの国が選んだ道です。しかし、国の支出は膨大となり、入り口である経済的収益が減れば当然に税収も減るため、長期化するほど、負担は膨大となりこの再分配策は困難に陥っていきます。つまり、感染拡大抑止 vs. 経済活動の矛盾を国家権力によって乗り越えようとすることもまた、社会保障が経済活動(税収)に依存している以上、矛盾に直面してしまう。国家もまた、経済を土台にしているので、結局この矛盾からは抜け出ることはできない。

 

第三に取りうる道が、国家に頼らず、国民たちが自らの意志で自主的に乗り越えていくことです。企業、NPO、そして各々の生活者が、接近を避け、各々が貢献できることを実践していく。しかし、これも、一斉に皆が同じ危機意識を共有し、それまでのような経済的利益や利便性、消費欲求、そして人とのコミュニケーション欲求を皆がほぼ同様に我慢するような禁欲的連帯を強力に築いていかなければ、焼け石に水です。民による自主的な自粛というのもまた、「自由と多様性 vs. 自制と均質性(による安全)」という矛盾に直面するため、困難です。実際、それが既述のような自由を求める社会運動や暴動にもつながります。

 

こうして、第三の点もまた、第二の国家権力によって自粛を要請する、あるいは罰則を設けて国や地方政府が民を強く統制するという方向に動かざるを得ません──平時の民主主義では自由や多様性を求める国民が嫌忌や危惧していた国家権力を、緊急事態においては自らがより強く望むようになります──。ここでも「民側からの強い権力行使の要求 vs. 民による自由の要求」という矛盾に直面します。

 

このように、どの道も矛盾を抱え、すぐには突破口が見出せない。結局のところ、経済活動と生物的生命との矛盾に置かれたどの国も民も、第一の薬学的対策がすぐには取りにくい以上、第二、第三の政治的方策をそれなりに組み合わせてどうにか急場しのぎにリスクをある程度抑えるという半端な方法を選ばざるをえません。それにより、拡大を緩やかにしたり、一時的に抑制することはできても、ゼロにすることは相当に困難です。波のように感染の拡大と抑制、経済の再開と抑制を繰り返していくしかない。

 

以上のように、コロナ問題は、人類を矛盾でがんじがらめにした問題だと言い換えられます。

 

本稿ではこうした矛盾に着目し、コロナ問題がもたらす社会変化、すなわち"Post-COVID-19 Society"(新型コロナウイルス感染症後の社会)について、複数の方向性を考えてみたいと思います。矛盾は、人々をがんじがらめにしますが、一方で、新しいものも生み出します。その方向には、より良いものもあれば、あまり良くはないものもあるでしょう。しかし、何を良しとするのかはとても難しい価値判断でもあります。そうであれば、「私たちはどのような方向に進むことを望むのか」をできるだけ考えていく必要があるといえます。

 

ちなみに、マルクスの系譜をたどる史的唯物論者たちは、矛盾の突破(弁証法)によって歴史が変わるとかねてより主張してきました。この意味で言えば、人を苦しませる矛盾とは、まさしく、新しい社会を生み出す萌芽でもあるのです。

 

本稿ではまず、第4回第5回にて「新型コロナウイルスが人類の何を破壊しているのか」、それを「7つ」に分けて示します。すでにこれまで指摘されてきた内容も多いのですが、一旦まとめる作業を企図しています。そして、そこから起こりうるいくつかの社会変化の方向性を取り出していきたいと思います。

 

もちろん、いずれの方向性も、現時点で散在している可能性であって、確実にそうなるというものではありません。実際には、複数のそれらが組み合わさって新しい方向性が生まれたり、同時並行的に(互いが葛藤や衝突もしながら)進んだり、さらにまた新たなものが加わったりしながら、より複雑に社会は動いていくはずです。しかし、すでに未来の萌芽は現れており、それを把握していくことで、私たちはどういう方向性を望むのか考えていくこともできるはずです。変化を生み出す動力とは、今の私たち一人ひとりだといえます。

 

次に、後篇(第7回以降)を中心に、もし矛盾の一極にある、あるいはそもそもの矛盾の前提としての「経済」という仕組み自体を変えていくならば(そのような問いにわれわれが直面していると考えるなら)、どのような社会の、あるいは人間と自然の在り方がこれから考えられるのか。言い換えれば、コロナ問題という危機状況をどのような未来へとつなげていくか。これについて、哲学や人類学の理論の助けを借りながら考えてみたいと思います。

第4回へ続く)

 

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連載のはじめに

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教養と看護 編集部のページ日本看護協会出版会

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