東京慈恵医院病棟内部(バルコニー側から中に向かって撮影)

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明治時代の軍医・高木兼寛は、英国留学の際にナイチンゲールの説く理想的な病院環境を目の当たりにし、大きな感銘を受けます。そしてこれがきっかけとなり、東京慈恵医院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)に日本で初めてのナイチンゲール病棟が誕生しました。約90年の時を経て古色蒼然たるたたずまいを残しつつ、新しい建物に周囲を囲まれながら凛として堂々と建つその姿を、今もまだそこに見ることができます。ナイチンゲールと高木が追い求めた理想とはどのようなものだったのか。その孤高の精神に迫ります。

編集部

 

慈恵の医療活動は、医師の養成、看護師の養成、施療病院での診療、の3つを事業として明治時代に開始された。その後、さまざまなできごとを乗り越え、現在は東京慈恵会医科大学附属病院(東京都港区西新橋)と他に3つの病院、および東京慈恵会医学部医学科と看護学科、慈恵看護専門学校を含む3校の看護学校を持つ組織へと発展している。

 

現在の附属病院看護部の理念は、以下のように示されている。

 

建学の精神「病気を診ずして、病人を診よ」を基盤に、F. ナイチンゲールの考えに基づいて「看護とは生命力の消耗を最小にするよう生活過程を整えること」と捉え、患者さんをひとりの人間として尊重し、相手の立場にたった患者さん主体の看護を提供します。 私たちは、専門職として、より質の高い看護を目指して自己研鑚に努め、医療・看護の発展に貢献します。

 

建学の精神とフローレンス・ナイチンゲールの考えを現代まで大切にしている慈恵の医療は、英国に留学し、医学を学んだ学祖・高木兼寛(たかき かねひろ)の軌跡によるところが大きい。

 

 

学祖・高木兼寛の英国留学

 

高木兼寛(1849〜1920)は宮崎県で生まれ、慶応2年、18歳のときに鹿児島に出て、石神良策1に師事し、医学を学ぶ。その後、戊辰の役を契機に西洋医学導入の必要性を痛感し、明治2年に鹿児島医学校に入学する。

 

そこで、当時、鹿児島医学校に校長として招かれていた英国の医師ウイリアム・ウイリス2に、英国流の医学の教えを受ける。ウイリスは、「病人を看護する体制、および一般の寄付による病院での治療体制によって、その国の文明度や開明度がわかる」と説き、若い高木の将来を見据え、英国への留学を薦めた。

 

明治5年に上京し、海軍軍医となった高木は、鹿児島医学校の恩師ウイリアム・アンダーソン3の推薦によって、彼の母校であるセント・トマス病院医学校へ留学することとなった。同8年、27歳の高木は横浜港を出航、同年10月ロンドンに到着し、セント・トマス病院医学校に入学する。そして、5年後の明治13年11月に帰国し、東京海軍病院長に就任した。

 

1 石神良策幕末~明治時代の医師。戊辰戦争において英国人医師ウィリスの下で治療にあたった。明治2年、医学校開設のため鹿児島藩に招かれたウィリスにしたがい、鹿児島医学校教授となった。その後、海軍病院長を務めた。 2 ウイリアム・ウイリス英国人医師。幕末に英国総領事館付医官として来日し、1877(明治10)年に帰国するまで約15年にわたり、日本の近代医学・医療の基礎を築き、発展に貢献した。 3 ウイリアム・アンダーソン英国人医師。1873(明治6)年、日本海軍の招きで来日し、海軍軍医寮で海軍軍医教育に当たった。

 

英国での高木は、あらゆることに日本との違いを感じながら、貪欲に学ぶなかで特に医療環境の改善の必要性を痛感し、広く庶民に医療を提供する「施療」という考え方に傾倒していった。また、日本にはなかった「看護婦」という職業にも関心を持ち、帰国の年に英国で発行された『Handbook of Nursing』という看護の本を持ち帰っている。この本は米国ニューヘイブン病院のコネチカット看護学校委員会の編纂による看護教科書で、ナイチンゲール著『Notes on Nursing(看護覚え書き)』の内容を参考に書かれたものである。

 

 

セント・トマス病院とナイチンゲール病棟

 

高木は、セント・トマス病院医学校での講義や臨床を通して懸命に学んだが、臨床では1871年に建築されたセント・トマス病院でさまざまな体験を重ねていく。病院はナイチンゲールの病院建築に関する考えが反映され、患者の療養環境について考える機会となった。そして、高木はこの病棟で医師と看護婦がともに働く姿を目の当たりにしたのである(図1)。また、セント・トマス病院には1860年にナイチンゲールが設立した看護学校があり、高木は臨床の場を通して、日本には誕生していない訓練を受けた看護婦の職業価値について身をもって理解したようである。

 

 

図1 セント・トマス病院の病棟の様子

 

 

セント・トマス病院の病棟は、ナイチンゲールの指導によりつくられた。ナイチンゲールは、「病院は病人の回復の場であるべきで、病院の環境の悪さから、病状を悪化させ、さらには二次感染を引き起こすようなことは、予防しなければならない」と考え、病院建築について提言している。

 

ナイチンゲールの考えは、クリミア戦争後に書かれた『病院覚え書』に詳細に示されている。現代社発行の『ナイチンゲール著作集 第2巻』の中に収められている「病院覚え書1)の冒頭には、次のような文章がある。

 

病院が備えているべき第一の必要条件は、病院は病人に害を与えないことである。とここに明言すると、それは奇妙な原則であると思われるかもしれない。ところがこの原則はぜひとも最初に打ち出しておかねばならない。というのは、病院それも特に人口の密集している都市の病院《の中での》死亡率が、病院《以外の場所で》手当を受けている患者について予想できる同種の病気の死亡率よりも、はるかに高いからである4

 

4(参考記事)「感染症医が読む『病院覚え書―細かく間違えるより、ざっくり正しく』(岩田健太郎)   ▶▶

 

ナイチンゲールは、“病院病”を発生させる主なる原因として、4つの欠陥を挙げている。

 

 ① ひとつ屋根のもとに多数の病人が密集していること

 ② ベッド1つ当りの空間の不足

 ③ 換気の不足

 ④ 光線の不足

 

そしてこれらの欠陥をふまえて、「病院構造の原則」について、

 

「病院建築の第一原則は、分離させた各パビリオンに病人を分割することである。病院の場合パビリオンとは建物全体のうち分離して造られている一棟をいう。各パビリオンには安全が保証できるかぎり最大限のベッドをはじめ適当数の看護婦室・台所・浴室・便所など、すべて患者数にみあうだけ、必要充分なかたちで備えてある。そしてこれは、院内の他のパビリオンや管理事務部門とは完全に切り離されているべきであるが、簡単な渡り廊下などでつながっているのはかまわない」

 

と述べ、パビリオン方式を提唱した。

 

セント・トマス病院の南棟は、ナイチンゲールの提案に基づいて、一つひとつの独立したパビリオンからなっている。そして、各パビリオンの構造についても“病院病”を発生させない提案が詳細になされている。

 

  • 各棟の病室の階数は2階以上にすべきでない。
  • 各階の病室数は、パビリオン全体を端から端まで開け放して、1つの階に病室は1つというふうにすることである。
  • 1つの病室に収容する最適のベッド数は、健康的であるという条件に合わせて、管理および規律の点で無理がないという条件を請け合える最も好ましい病室の大きさは、20〜32床である。また、患者は病室の両側へ半数ずつ収容すること。
  • 少なくともベッド2つごとに1つの窓がほしい。それは患者が光・換気・ベッドでものを読めるために必要である。窓の高さは患者が外を見られるようになっていて、上は天井の基部まで達しているのがよい。

 

セント・トマス病院南棟の内部構造は、窓1つにベッド1つがあり、ベッドは片側15ベッド、両方で30ベッド、中央には暖炉やデイスペース、片側には浴室とトイレとバルコニー、もう一方には、特別病室とリネン庫、事務所、婦長室、台所、リフトがある(後掲図5参照)

 

高木は留学中に、セント・トマス病院を拠点にして様々な経験をしたことは想像に難くないが、衣・食・住のすべてにかかわる病院建築についても日本との相違に驚いたに違いない。

 

 

帰国直後の高木兼寛の活動

 

帰国後、高木は直ちに活動を開始する。当時の日本では、医療を受けられずに死を迎える人も多かった。高木は「たまたま貧しいだけの人が治療を受けられずに死んでいくのは、医師として見過ごせない」と考え、研究を重んずるドイツ医学ではなく、医療重視のイギリス医学を実践する必要性を感じていた。

 

そして、手始めに同志の医師18名とともに明治14年1月、「成医会」をつくった。会の目的は「専ラ醫風ヲ改良シテ学術ヲ講究スルニアリ」とある。成医会会員は、会員相互で研鑽を積み、医師を育成することと、施療病院の建設が急務であると考えるようになった。

 

同年5月、「成医会講習所」を設立して医学教育を開始した。そして翌年の明治15年8月、民間で唯一の施療病院である「有志共立東京病院」を設立し、診療を開始した。施療病院は皇室の御眷護の下に、明治20年、「東京慈恵医院」と改められた。一方、成医会講習所は明治23年に成医学校と改め、翌年「東京慈恵医院医学校」と改称した。

 

明治18年には、「有志共立東京病院看護婦教育所」が開設される。この学校は、ナイチンゲール看護婦訓練学校5を範として企画・運営された。

 

5 ナイチンゲール看護婦訓練学校1860年にフローレンス・ナイチンゲールがセント・トマス病院の中に開校した看護学校。現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部局である。看護実務だけでなく、 病院管理、スタッフ育成など指導的立場になれる看護師の育成を目指しており、卒業生は世界各国の病院で優秀な指導者となっている。

 

これらすべての事業において、高木の英国における体験が生かされ、日本に根づいていく第一歩を踏み出したと言えよう。

 

 

施療病院と東京慈恵医院第1号病棟

 

高木は、明治15年から芝公園5号10番地「天光院」で、有志共立東京病院の診療を開始した。そして、明治16年に旧東京府病院の跡地に移転し、明治17年4月19日に開院式を行った。

 

東京府病院の建物および設備を借り受けた高木は、その後、病院の改築を重ねていく。明治36年の東京慈恵医院建物図が現存しており、図面の下方にナイチンゲール病棟に似た建物が2棟みられる(図2)。これは明治19年に建てた第1号病棟と明治23年に建てた第2号病棟である。

 

 

図2 高木兼寛の建てた東京慈恵医院―明治36(1903)年の病院全体の様子

 

 

『東京慈恵医院 第1報告』には、初めて建築した第1号病棟の記録が載っている。

 

明治18年5月25日 総会

 

高木兼寛病室新築図面並に仕様書を出して一同に示し終えて新築の要旨を演述すること左の如し

 

今日まで使用し来たりし病室は諸君の知らるる如く木造にして且つ請負建築なれば甚だ不堅固なり斯く不堅固なるを知って其計画をなさざるは遺憾なり遺憾なるのみならず一度烈風が起これば毀損破滅の危険あらん若し毀損破滅の難あるに当っては患者をして災害を被らしめ尚且施療を停止するの恐れあらん然る時は該病院は治療を知て家屋の毀損破滅を知らざるかと笑止せられん是れ余が病室新築の議案を草する所以なり而して木造にして不堅固なるよりは寧ろ石造をもって堅固に建築せんとす

 

  暫くして起立を問う総員賛成す仍て草案に決す

  右建築入費の見積高は八千円なり

 

この総会によって新病棟の建築は決定し、明治18年9月1日に第1号病棟の建築に着手し、翌年5月に完成した。図3はできあがった第1号病棟の外観で、レンガ造りであることがわかる。

 

 

図3 東京慈恵医院病棟の外観

 

 

病棟内部の構造を図面(図4)で見ると、片側に15ベッドずつ30ベッド、窓1つにつきベッド2つが描かれている。中央に中の台と呼ばれた記録台と手洗いがあり、病室全長は102尺(約31m)、幅は27尺(約8m)である。

 

 

図4 東京慈恵医院病棟の内部構造

片側に15ベッドずつ30ベッド、窓1つにつきベッド2つを配置。中央に中の台(記録台)と手洗いがある。病室全長102尺(約31m)、幅は27尺(約8m)、天井高17尺(約5m)。「イ.洗面及び浴室」「ロ.便所とバルコニー」「ハ.特別病室」「ニ.台所」「ホ.看護長室」

 

図面左側の入り口と反対側には「イ.洗面及び浴室」「ロ.便所とバルコニー」がある。図面右側には「ハ.特別病室」「ニ.台所」「ホ.看護長室」がある。天井高は17尺(約5m)である。

 

セント・トマス病院南棟の内部構造(図5)と比較すると、この病棟は、セント・トマス病院のナイチンゲール病棟を模してつくられたものであることがわかる。

 

 図5 セント・トマス病院南棟の内部構造

 

 

 

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芳賀 佐和子 はが・さわこ

東京慈恵会医学部看護学科 客員教授。1968年慈高等看護学院卒業、東京慈恵会医科大学附属病院 内科病棟に勤務。その後、母校である慈恵看護専門学校の教員として後輩の指導にあたる。1975年頃から『慈恵看護教育百年史』の編纂に向けて史料収集を行い、1984年に本を発行。1992年に開学した東京慈恵会医科大学医学部看護学科の設置準備にあたり、開学と同時に基礎看護学の教員となり、平成2012年に定年退職を迎えた。その後、2016年に発行した『慈恵看護教育130年史』の編集にも携わった。日本で最初に看護の教育を始めた慈恵の歴史をたどる旅は、40年前に抱いた歴史への興味に導かれ、現在も続いている。

 

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教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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