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Image courtesy of the NASA/Goddard Space Flight Center, and ORBIMAGE.

クリミア半島

共存と争いの歴

text by

石川 一洋

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ソビエト連邦崩壊とクリミア

 

しかしソビエト連邦が崩壊して、ロシアとウクライナが自立した独立国となった時、クリミアは初めて、ロシアとウクライナの間の領土問題として意識される。

 

1991年12月8日、ロシアのエリツィン大統領とウクライナのクラフチューク大統領、そしてベラルーシのシュシュケービッチ最高会議議長は、ベラルーシのソビエト共産党最高幹部のための保養地ベロヴェーシに集まった。ウクライナが国民投票で独立を宣言、連邦崩壊は不可避、しかし崩壊後にどのような組織をつくるのか、そしてウクライナがそれに加盟するのか、そしてクリミアと核兵器の行方はどうなるのかが、首脳会議の議題だった。

 

とくにクリミアはロシアへの帰属意識が強く、ウクライナが一方的に離脱すれば、クリミアがロシアとウクライナの紛争の場となりかねなかった。会議の参加者には、当時ユーゴスラビアでのセルビアとクロアチアの血みどろの民族紛争がロシアとウクライナの間で再現する悪夢がよぎっていた。

 

 

クリミア自治共和国(クリミア共和国)の人口分布(2001年のウクライナ国勢調査より)

ウクライナ国内でも特にロシア人及びロシア語を母語とするウクライナ人が人口の半数以上を占める。このためソビエト連邦解体直後の1990年代には独立が図られたもののやがて終息し、自治共和国という体制が続いてきた。しかし、その後もウクライナの中で親ロシア感情の強い地域であり、2014年のクリミア危機で帰属問題が再燃することになった(Wikipediaより)。

 

 

現在のロシアにおける最高指導者の一人で、当時の交渉記録を知る立場にあるナルイシュキン対外諜報局長官は、下院議長だった当時の2016年に筆者の取材で、ベラヴェージの首脳会議でクラフチュークがエリツィンに「クリミアはどうするのですか」と尋ねたところ、「ザビライッチェ(どうぞお取りなさい )」と答えたという逸話を紹介し、今のクリミア問題の原因は当時のロシア指導部の無責任な対応にあると非難した。

 

しかしロシア交渉団は、無条件でクリミアをウクライナ領と認めるつもりはなかった。独立国家共同体創設の条約として次のような国境線に関する条項がある。「締結国は、共同体の枠内で相互の領土保全および既存の国境の不可侵を認め、かつ尊重する」。ロシア側代表団の一員であるエリツィン大統領の側近だったセルゲイ・シャフライは、“共同体の枠内”というのがポイントで、クリミアのウクライナ領有をロシアはあくまで共同体の枠内で認めるという意味だったと指摘する。

 

つまり、もしもウクライナが共同体を離脱してロシアに敵対する陣営に入るのであれば、ロシアはクリミアの領有権を主張するということだ。2014年、ウクライナでの親ロシア政権が欧米の支援を受けたマイダン革命によって倒され、親欧米の政権の成立とともにプーチン政権はクリミアの一方的な併合に踏み切った。それは、独立国家共同体創設時のロシアが密かに仕掛け、誰もが忘れていた起請文をプーチン大統領が持ち出して実行したようにも見える。もちろんロシアとウクライナとの間ではその後1997年の友好協力親善条約で国境線の尊重で合意しており、ロシアのクリミア併合がウクライナとのこうした条約に背くものであることは言うまでもない。

 

クリミア戦争と現在の国際情勢

 

プーチン大統領は2018年3月の大統領選挙で圧勝して2024年までロシアの大統領を務めることになった。彼はほぼ四半世紀にわたってロシアの最高権力者の地位を保つことになる。

 

クリミア戦争当時のニコライ一世は、兄のアレクサンダー一世の急死を受けて気が進まないまま皇帝に推挙されて以来、4半世紀にわたる絶対専制君主として強権的にロシアを支配した。ニコライ一世は当時、ヨーロッパでは自由主義に反対する保守反動の典型、ヨーロッパの警察官として忌み嫌われていた。ヨーロッパの進歩的な新聞や雑誌では、1848年の革命後、ニコライ一世とロシアに対する風刺と批判であふれていたという。

 

今、ウラジーミル・プーチンほど欧米で嫌われている指導者はないだろう。その一方、国内での人気はこれまでで最も高い。就任以来プーチン大統領の活動を肯定する割合は高い時で80%を超えており、低い時でも60%を切ることはない。プーチンはロシアに安定をもたらした指導者、保守反動の指導者として国内では高い支持を集めているのだ。

 

プーチン大統領自身、過去のロシアのどの指導者を評価しているのか、自ら明らかにすることはない。ただピョートル大帝、エカテリーナ二世とともにニコライ一世と彼の息子で農奴解放など改革に踏み切ったアレクサンダー二世の像がクレムリンの謁見室には設置されている。保守反動と言われながら、ロシアに一定の安定をもたらしたニコライ一世をプーチンが肯定的に評価しているのは間違いないだろう。

 

19世紀のクリミア戦争はなぜイギリス、フランスを巻き込むほどの大戦争となったのか。オスマントルコ、ロシア双方の指導者とも必ずしも戦争することを望まず、平和的な解決をそれなりに希求しながら、またその妥協も十分可能とみられていたのに、戦争へとなだれ込んでしまった。それは指導者による誤算、野心や世論に引きずられる愚かさなどの結果を表している。

 

ロシアはクリミア戦争の敗北によって、時の外相ゴルチャコフが「ロシアは集中しなければならない」と述べた内政改革に専念する時期に入る。黒海での艦隊所有は禁止され、黒海を通じたオスマントルコへの南下政策は一時封印される。ただ合従連衡の帝国主義の時代であり、ロシアと英仏の関係も動く。19世紀後半にかけてロシアはドイツと対抗する意味で露仏同盟の結成に動き、さらに日露戦争後は英仏ロの三国協商に至る。

 

現代をみると、クリミア併合に伴うロシアとアメリカ・イギリス・ヨーロッパの対立、そして対ロシア制裁は、解決と解除の目途は今のところない。プーチン大統領はクリミアのロシア領有は議論の余地が無いとして、一切の交渉、妥協をクリミア問題に関しては拒否しているからだ。ただ、こうしたロシアと欧米の関係は、一部の論者や有識者が述べるような「新冷戦」の状況ではない。

 

ヨーロッパはロシアにとって最大の貿易相手国であることに変わりはなく、アメリカもロシアと対立しつつ、双方とも対話を模索している。19世紀とは異なるのが、クリミアへの投資や渡航を欧米が禁じていることで、クリミアが国際社会から隔絶された半島となったことだ。ロシアはアゾフ海のケルチ海峡に橋をかけてロシアとクリミアとのつながりをさらに強めるが、黒海の真珠ともいわれるヤルタなどクリミアが本来の国際交流の場に戻ることは今後あるのだろうか。

 

その見通しはまだ全くない。

(おわり)

 

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