[連載小説]ケアメンたろう 第9話 たろうの桜 文・西尾美登里/挿画・はぎのたえこ

「他害であったとしても保険金は下りますよ。いや、そんなこと大学内であってはならない。あったら大変なことだ……

──(本文より)

©2020 Taeko Hagino

登 場 人 物

東尾太郎:この物語の主人公。県立南城高校ラグビー部に所属している高校生。あまり自分の感情を表に出さない。

太郎の母:九西大学病院の元看護師で、現在は同大学で看護学教員として働く。脳の出血で救急搬送される。

慧  人:太郎の幼なじみで母親がいない。父親は太郎の母と同じ九西大学に勤めている。

ツッツー:慧人と同じく太郎と幼なじみ。家は歯科医院で両親が共働き。うんちく好きのマニアックな趣味を持つ一人っ子。

澤田久美子:校門の前にある電気屋の看板娘。介護が必要な祖母と妹、父と母との5人暮らし。さっぱりとした性格。

田村さん:九西大病院のソーシャルワーカー。その誠実さで周囲からの信頼が篤い。母を通して太郎を幼少より知る。

朔   先生:九西大病院の医師。母が看護師の頃、勤務を終えるのを待つ太郎をよく気にかけてくれていた。

  

 

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母の背筋がシャンと伸びる

 

慧人の父親と田村さんが、相談室に残り2人で囁いている。

 

「太郎君は、もしかするとお母さんが何か“事件”に巻き込まれたのかもしれないと思っているんですかね……。仮にですが、他害の場合だったとしたら、生命保険の受給に影響しますか?」

 

「生命保険の手続では、他害であったとしても保険金は下りますよ。いや、そんなこと大学内であってはならない。あったら大変なことだ……」

 

「きっと東尾さんは仕事のことで疲れておられたんでしょう……障がいが残った場合は、元の職場復帰は大変ですね。周囲の我々がしっかりと固めていかないと。とりあえず生命保険は、自分で自分の命を絶つ場合と天災と、戦争以外。そして変乱というか争いごとではないこと。それ以外はたいてい出ると思いますよ」

 

太郎と慧人、ツッツー、そして澤田久美子の4人が病棟にいくと、母親は病室でベッドに座っていた。

 

太郎の母親は、幼馴染の慧人とツッツーを見ると表情が明るくなり、みんな青年になったねーと喜んだ。澤田久美子を紹介すると「来てくれてありがとう」と嬉しそうにした。

 

脳の腫れが引いてくるにしたがって、右半身の痺れも少しずつ軽くなってきたらしく、右手の指先が動くようになっていた。ただ、右の瞼が下がったままだ。喜ぶ母には悪いが、そのような姿を友人に見られることは、太郎の本意ではなかった。

 

分厚い病衣の襟元は、喉の下でしっかりと重ねられていて、胸があらわになっていないことに太郎は安堵した。しかし、若干前かがみの姿勢の母親は、しきりに胸元を気にしている。澤田久美子が母親に話しかけて、ツッツーと慧人と太郎は席を外し、うすいオレンジ色のカーテンが引かれた。

 

前で留めるブラジャー。澤田久美子に促され、太郎の母親はまず動きにくいほうの右肩紐を口にくわえ、自由の利く左手で左肩の肩紐を通す。そして口にくわえた肩紐を左手で持ち右手をくぐらせた。前をマジックテープで留めて、ブラジャーからはみ出た脇の肉は左手で何とかうまく収めることができた。

 

カーテンが開いて再び現れた母親は、病衣越しにも背筋がシャンと伸びてシャープに見える。下着をつけるだけで気持ちも身体もシャキッとなるのだということが、太郎にも理解できた。

 

そして次はピンクの靴だ。あぐらをかくようにして、麻痺のある足を左足の太ももに乗っけると、うまく履くことができた。

 

「少しお化粧とお顔のマッサージもしておいたから」

 

澤田久美子が男子高校生たちに声をかけた。化粧をしてもらった母親は、急に元気になったように見える。

 

太郎は母親の車椅子を押し、病院の入口まで友人3人を見送った後、デイルームへ行った。

 

「母さん、なんか急に元気になったように見えるよ」

 

「でもね、私、ものがゆがんで見えるのよ……」

 

とまだ不明瞭な言葉で言う。

 

「ゆっくり快復するといい」

 

と言う太郎の顔をジッと見つめて、母親は「ごめんね」と言って泣き出した。

 

太郎は久しぶりに家のことをいろいろ話した。ハチとクーは元気でいること。仏壇の水は毎日変えていること。家事ができるようになってきたこと……。そのあいだ、ずっと母親は笑ったり泣いたりしていた。

 

ナースコールで来てくれた看護師が、母親をベッドに移すのを太郎は見ている。細い体格で移乗の動作をスマートにこなす。太郎は自分も同じことを練習しなければならないのかも、と思った。

 

ワンピースの女性

 

面会終了時間になって病院を出ると、夜だった。病院の玄関から空を見上げると、満月が浮かんでいる。

 

母親が勤める大学の学科棟までは、歩いて3分程度だ。小学生の夏休みはこの建物の中にある母の研究室で本を読んで過ごした。母親の研究室の窓の外には、しっかりと育ったモチノキがすらりと伸びていて、手を差し出せば葉や枝に届きそうだった。しかし校舎が新築されることになって、その樹が伐採されてしまったとき「あんなにしっかり延びた命を切るなんて」と言って母はとても怒っていた。

 

小学6年生の頃、学科棟の玄関前の芝生に、母と一緒に植樹をしたことを思い出す。新築時に寄付をした者に対して、桜の苗が与えられるらしかった。「あの桜はどうなっているだろう」と思い、太郎は建物のほうへ向かった。

 

あのとき母は「これは太郎の桜ね」と言って、プラスチックのプレートにマジックで「たろう」と書いてくれが、予想したとおり、そのプレートがついた樹はもう見当たらなかった。さらに後から何本も植えられていたため、太郎の桜がある場所はわからなくなっていた。

 

右手のグラウンドでは、大学のラグビー部が照明で照らされながら練習をしている。その向こうには見慣れない扇形をした新築マンションが建っていた。あれができる前は、道の両脇に古い商店が並んでいた。魚屋、雑貨屋、中国の食材屋、本屋、タバコ屋……他にはどんなお店があっただろう。

 

当時、魚屋は老夫婦が営んでいて、太郎がおつかいに行くたびに「いい魚を選んだよ」と声をかけてくれた。そしてたまに「はい、おまけ」と言いながら小海老のフライを油紙に包んでくれた。

 

数年で風景も人の生活もガラリと変化する。あの魚屋はもうない。

 

 

   

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教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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