©2019 Taeko Hagino
登 場 人 物
東尾太郎:この物語の主人公。県立南城高校ラグビー部に所属している高校生。あまり自分の感情を表に出さない。
太郎の母:九西大学病院の元看護師で、現在は同大学で看護学教員として働く。脳の出血で救急搬送される。
西野先生:県立南城高校ラグビー部の顧問。ラグビーをしていれば「人生、なんとかなる」と思っている。
田村さん:九西大病院のソーシャルワーカー。その誠実さで周囲からの信頼が篤い。母を通して太郎を幼少より知る。
朔 先生:九西大病院の医師。母が看護師の頃、勤務を終えるのを待つ太郎をよく気にかけてくれていた。
小泉弘美:学年でかわいいと評判のラグビー部マネージャー。“自分に好意があるかも”と淡い期待を抱く男子が少なくない。
慧 人:太郎の幼馴染で母親がいない。父親は太郎の母と同じ九西大学に勤めている。
特集:ナイチンゲールの越境 ──[ジェンダー]
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洗濯物をどうする?
3月22日。校内では梅の花が散り、桜のつぼみが目立ってきた。
独り暮らしを始めた太郎も、少しだけ家事ができるようになった。
元気な頃の母は、太郎が部活から帰るといつも「手足を風呂場で洗いなさい」と声をかけ、「泥だらけの洗濯物はベランダよ」と指示した。そのたびに太郎は、面倒だと言う代わりに「チッ」と軽く舌打ちをし、手足を洗わないまま(ささやかな抵抗だ)ベランダの二層式洗濯機に汚れた衣類を突っ込んだ。
太郎が後から面倒そうに手足を洗っていると、いつも背後から「あのさ、ドロドロの洗濯物を家の中のドラム式のほうに入れると詰まって壊れるかもしれないし、他の洗濯物にも砂がつくでしょ! 」と母は言うのだった。
毎日毎日リピートされるそのやりとりがすっかり頭に入っていたけれど、太郎はドラム式洗濯機に洗剤と柔軟剤を一緒に入れることすら知らなかったし、どのボタンを押すのかにも戸惑った。
それ以外の家事に関するマシーンのことも、すべてあとから慧人に教えてもらった。たとえば、食洗機に使う洗剤の投入量はスプーン1杯でいい。それに専用の洗剤というものがあるらしい。「間違って手洗い用なんか使ったら壊れるからな」と釘を刺された。
洗濯物の干し方もよくわからなかった。面倒なのでドラム式洗濯機の「乾燥」ボタンを押してしてみたけれど、いまひとつ乾きが悪い。そしてひどく皴だらけのシャツが仕上がる。まあ別にいいや、と太郎は思ったが、学校にそれを着ていくと、あまりのシワシワにみんなから注目を浴びた。
「どうしたの、そのシワシワ?」
女子だけじゃなく男子の何人かからも聞かれて、いちいち説明するのが面倒になった。
仕方がないので、太郎はネットで調べてみた。干すときにシャツを「パンッ」としっかり振ってから干せばいいらしい。簡単だ。でもそのとき、襟が黒ずんでいるのに気づいた。きっと漂白剤を使うんだ。だけどどれくらいの量を塗ればいいかわからない。適当にやってみたら手にドロッと垂れてきた。指がヌルッとする。
「あぁこれは、皮膚が……たんぱく質が溶けたんだな。科学の時間に聞いたことがあるぞ」太郎は「襟の黒ずみに塗る漂白剤について聞く」と、携帯の予定表に書き込んだ。明日、慧人か小泉弘美が教えてくれるだろう。
人に聞かなくても、失敗しながら自分で悟ったこともある。母親の入院後、初めて洗濯機を回したとき、ヘッドキャップの顎を固定するマジックテープに、母親のストッキングが絡まって破れた。剥ぎ取ったマジックテープには細かな衣類の屑が付いていた。
「マジックテープがついている洗濯物は、ネットに入れて洗濯するべし……と」
そのうちに、今度は制服の尻が破れた。別にいいやと思って数日間そのまま登校していたら、たまりかねたクラスメイトから「尻、破れとるよ。何日も前から」と指摘された。
破れた生地の補修なんて自分にはできないけど、女の嫉妬があるから小泉弘美ばかりに頼むわけにもいかない。明日、小柳久美子に縫ってもらおうかなぁ、どうしよう……と思っていたら、クラスも部活も一緒の旺祐が「太郎、うちの母ちゃんが縫ってくれるよ。部活が終わったら今日はラグビージャージで帰りな」と言ってくれた。
〈……臭いよ? 俺の制服(汗やら、何やら……)〉とためらっていると、「あのさ、ラグビー部員は皆同じニオイだからな、ズボンよこせ」と言ってくれた。
誰もエスパーじゃない
食材も、初めて一人で買いに行った。野菜の皮をむくのは面倒だから、たわしでこすって皮ごと料理する。包丁なんてまともに持ったこともなかった。金属は錆びるから、セラミック製の包丁ばかり使用する。すべてザク切りの料理になるのは、指を切りそうで怖いからだ。こんなに人参が硬い野菜とは思っていなかったし、レンコンを切るときにこんな音がするなんて知らなかった。野菜料理って結構面倒だな。千切りのキャベツはコンビニで買うことにした。もっぱら肉料理になりそうだ。
母親がよく使用している圧力鍋を使ってみたいが、「ピストンから空気がシューッと抜けてしまうまで、絶対に蓋を開けてはダメだ」と慧人に言われ、なんだか怖くて試していない。
夜の8時を過ぎると、スーパーの肉と魚が値引きになる(ちなみに、肉よりも魚のほうが安くなる時間が早い)。弁当も安価で買えるから、部活帰りはスーパーで食材を買うことにした。
朝起きると、ベランダがゴミだらけになっていた。
納豆と弁当の容器、その他散乱したゴミを渋々拾う。振り返るとカラスと目が合った。〈こいつ、観察してやがる〉。ごみバケツの蓋を、ことさらかっちりと閉めてカラスにアピールする。それからも数回痛い目に遭った。油断をすると容赦なくハエがわき、カラスがやってきた。
不燃物と可燃物の日以外はゴミ置き場の鍵がかかっている。廃品回収の日もわからない。隣人宅のチャイムを鳴らして尋ねると、おばちゃんは面食らっていたけれど、事情がわかると快く教えてくれた。そしてその日から、おばちゃんが自分で焼いたパンをドアノブにぶら下げてくれるようになった。
慧人や近所の人に聞けば、たいていのことを教えてくれる。困った時には自分でなんとかしようと思わず、助けを求めるといいんだな。優しい人は世の中に結構いると思う。そのことを食堂で慧人に自慢げに報告する。
慧人は涼しい顔でこう言った。「そうだよ。それコツね。母親の入院やら、父親の子育てやら、恥ずかしがっている場合じゃないって。うちなんか母親がいないって小さい頃から公言しているからさ、遠足の弁当なんて近所の人がつくってくれてたよ。それもすごく豪華なやつ。困ったときに隠していたらダメだって。生活ってそういうもんだよ。ごみ出し一つにしても“助けてほしい”とかさぁ、自分から発信しなきゃ。“思っていれば気持ちが通じる”なんてウソ。“あ・うん”なんてわかんないよ。みんなエスパーじゃないんだからさ」
「確かに。誰もエスパーじゃないな」ヘラリと慧人と太郎は笑う。
「今までは全部、母さんとか婆ちゃんがやってくれてたんだなぁ。お前の親父さんも偉いよな」と太郎がそう言うと、慧人がすこし目を伏せた。
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