「枕元でLINEの音が鳴った。小泉弘美からだ「たろーちゃん 何かあったの?」というメッセージが、ウサギのスタンプつきで送られてきた」──(本文より)

登 場 人 物

東尾太郎:この物語の主人公。県立南城高校ラグビー部に所属している高校生。

     あまり自分の感情を表に出さない。

太郎の母:九西大学病院の元看護師で、現在は同大学で看護学教員として働く。

     脳の出血で救急搬送される。

西野先生:県立南城高校ラグビー部の顧問。ラグビーをしていれば「人生、なんとかなる」

     と思っている。

田村さん:九西大病院のソーシャルワーカー。その誠実さで周囲からの信頼が篤い。

     母を通して太郎を幼少より知る。

朔先生:九西大病院の医師。母が看護師の頃、勤務を終えるのを待つ太郎をよく気にかけてくれていた。

小泉弘美:学年でかわいいと評判のラグビー部マネージャー。“自分に好意があるかも”と淡い

     期待を抱く男子が少なくない。

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>> 前回まで/連載のはじめに

 

 

レシートはとっておく

 

太郎が田村さんに医療限度額の手続を相談すると、田村さんは「それなら」といって、太郎と一緒に病院の庶務課に足を運んでくれた。事の成り行きや太郎の置かれている状況の簡単な事がらは、田村さんが事務職員に説明してくれた。

 

カウンター越しにいた庶務課の女性が、手続きの用紙をコンピューターから発行し、太郎が記入するべき事項の部分を、鉛筆で丸を囲んでくれた。

 

「この鉛筆の部分を記入してください」

 

「今ここで書類を書くので、発送はお願いできますか? 東尾君は未成年だから」

 

横で田村さんがと言うと、女性は「あぁ良いですよ」と言って、詳しく説明してくれた。

 

「このシステムはかかった医療費を支払った後、決められた医療限度額よりも支払いが多ければ、差額の金額が還付されるものですけどね……お母さんがこの病院での入院ならば……あらかじめ還付されるだろう金額を差し引いた金額を請求額としているのよ。わかるかな……」

 

と庶務課の女性は、太郎の表情を確認しながら説明した。

 

「はい……なんとなく」

 

そして、書類を一枚書けば済むことなのだということがわかった。つまり、医療限度額の手続きの書類は、入院先の病院に対して提出するものでなく、保険者である保険組合に提出するってことか。だけど病院が患者へ配慮して、最初から還付金を見越してからの費用を計算してくれる。だから田村さんが「発送はお願いできますか」と言っていたんだ。

 

太郎は、フムフムとうなずきながら記入する。

 

……この医療限度額のシステム、大学病院の入院患者は、誰でも全員知っているのだろうか。一人暮らしの高齢者はどうするのだろうか……。僕みたいに親が倒れてしまった場合、田村さんのような人がいなければ、一体誰が教えてくれるのだろう。そういう役割の人はすべて病院にいるのだろうか。

 

「太郎君、医療限度額の手続をしたとして、お金がかかるけれど大丈夫なの?」

 

庶務課の女性と田村さんが二人で心配そうに太郎の顔を覗き込む。田村さんは勉強会のときも、そうやって気を使ってくれる人だった。

 

「いくら、いくらあったら大丈夫ですか?」

 

「入院費とは別に、食事代やベッド費用を請求されるからね。そうだね、15万円は用意しといたほうがいい。あと、オムツとか尿とりパットとか買ったらね、レシートは取っておくんだよ。手続きをした場合、一部返金されるかもしれないから」

 

「はぁ・・・」

 

「今いろいろ言っても難しいだろうから、年度末あたりに説明するからね。とにかくレシートは取っておいて」

 

「はい」

 

「これらかも、いろいろと手続きやお金のことで、わからないことがあったら、会計窓口で僕を呼ぶか、ソーシャルワーカーを呼ぶといい。ソーシャルワーカーは心配ごとにも相談に乗る職業だからね。僕は普段、地域連携室にいるからね」

 

田村さんは、地域連携室まで太郎を案内してくれた。そこで田村さんの胸ポケットのPHSが鳴った。

 

「はい……はい、すぐ行きます」

 

田村さんはそう言いながら、太郎に“それじゃ”と目で合図して、笑顔でエレベーターのほうへ早足に進んでいった。

 

 

洗剤の分量なんて知らない

 

「臭っせー!!」

 

再び帰宅をした太郎は、玄関で靴下を脱いでその場に叩きつけた。

 

一晩を越した運動部に所属する少年の足は臭い。しばらく見つめたあと、『誰も拾ってくれる人はいないか……。俺の足ってこんなに臭かったっけ?』そう思いながら静かに自分が脱いだ靴下を手に取る。そしてそれを洗濯機に放り込もうと蓋を開けたとたん、昨日着た汚れたままのジャージが猛烈な臭いを放ち、再び太郎の鼻を襲った。

 

「くっそ、臭っせー!!」

 

即座に蓋を閉じ、すぐに手と足を洗う。

 

スタートボタンを押した後、細かくガタガタと音を立てる洗濯機の音を聞きながら、これからずっと自分で洗濯をすることになるのだろうか、と考えた。……そういえば、ラグビー部員の啓太はいつも帰宅後すぐに自分で洗濯をしているらしかった。

 

「あいつは偉いな」

 

太郎はポツリとつぶやいた。

 

優等生だって、劣等性だって、顔がいいやつだって、そうでもないやつだって、ラグビーの練習後には全員が臭い。部室に入ると互いに臭いと思っている。罵り合いはないけれど。母はいつも帰宅時に口をすっぱくして「手と足を洗いなさい」と言うが、太郎は「ハイハイ」と従う振りだけしていた。たぶんほかの奴らも言うことなんか聞かないだろう。しかし今、太郎は『言うことを聞いたほうがよかったのかもしれない』と思っている。もしも母が死んだりしたら、きっと後悔するだろうから……。

 

それに、母親の言っていることを聞けば、神様が願いをかなえてくれるような気もする。普段信心深くないのにそういう行動をとるなんて、我ながら都合がいいなと思った。

 

ため息をつくと、なんだか口の中が妙にザラザラして気持ちが悪いのに気づいた。皮膚がぴりぴりする。寝ていないからだろうと思いベッドで横になる。眠くてすっきりしないのに頭がさえて眠ることができない。何度も寝返りをうつ。ハチとクーをベッドに乗せて喉元を撫でると、いつものように首を伸ばして仰け反っている。

 

そうしているうちに、洗濯機が停止した。

 

蓋を開けると、いつもの洗いたての香りがしなくて、まだ少し蒸れたように臭い。マジか……?? あぁそうか! 洗剤を入れてないからだ。もう一度やり直し。はぁ……こんなときにいろいろなことがうまくいかないなんて、縁起悪いし面倒くさい。

 

どれくらい入れたらいいんだろう? 洗剤と柔軟剤の容器には、洗濯機に書かれている表示とは異なる投入量が記されている。

 

「多いに越したことはないだろうけれど、どっちに従うべき? わっかんねぇや」

 

そのとき、枕元でLINEの音が鳴った。小泉弘美からだ。

 

「たろーちゃん 何かあったの?」というメッセージが、ウサギのスタンプつきで送られてきた。

 

「母親入院。洗濯機に入れる洗剤の量ってさ、洗剤の箱に書いてある量を入れるん? それとも洗濯機の洗剤入れるとこに表示されてる量を入れるん?」

 

「洗濯物の量によるけれど、あまり大して変わらないんじゃないかな」

 

「わかった。ありがとう」

 

洗剤も柔軟剤も多めに入れて、再び洗濯機のスタートボタンを押した。

 

 

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教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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