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「その、脳の出血が起きたために、母は階段から落ちたんですか? それとも落ちたことが原因で出血が起きたんですか?」──(本文より)

第2話 急な入院 [連載小説]ケアメンたろう

文・西尾美登挿画・はぎのたえこ

登 場 人 物

東尾太郎:この物語の主人公。県立南城高校ラグビー部に所属している高校生。あまり自分の感情を表に出さない。

太郎の母:九西大学病院の元看護師で、現在は同大学で看護学教員として働く。脳の出血で救急搬送される。

西野先生:県立南城高校ラグビー部の顧問。ラグビーをしていれば「人生、なんとかなる」と思っている。

ツッツー:もう一人の親友・慧人と同じく太郎と幼なじみ。家は歯科医院で両親が共働きで、おばあちゃんっ子。

田村さん:九西大病院のソーシャルワーカー。その誠実さで周囲からの信頼が篤い。母を通して太郎を幼少より知る。

朔先生:九西大病院の医師。母が看護師の頃、勤務を終えるのを待つ太郎をよく気にかけてくれていた。

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同意書

 

「おい、太郎。大丈夫か?」

 

西野先生がシャツの上から二の腕をつかむと、その掌の温かさと衝撃で太郎ははっとする。

 

「あ、はい」

 

ピンク色と黄色のポップな感じの丸椅子を若手の医師から差し出され、太郎は西野先生と並んで腰掛けた。その医師が母親の脳内の情報を映し出したコンピューターの画面に、ベテラン医師が目をやる。

 

「お母さんの脳の中で」左側の脳をペンで指す。

 

「この黒いところ。ほら右と左で形が違うところ。この黒い部分で出血が起こっているために、今からしなければならないことを話すからね。おい、文書一式を打ち出して」

 

若手の医師が二つ返事をして、コンピューターの中にある〈同意説明文〉のアイコンをクリックすると、印刷機がウィーンと稼動する音がして紙が次々に出てきた。

 

“今から手術をするから同意してね、ということか……”と、太郎は思った。

 

このベテラン医師は、僕が取り乱したらどう対応するのだろう。「手術はしてほしくない」と言ったら、どういう反応を示すのだろう……。こんなときに人を試すようなことを考える僕は、おかしいのかな?

 

太郎はまともな質問をぶつけてみる。

 

「先生、母はなぜ出血したんですか?」

 

「階段の下で見つかったんだよ」

 

「どこの階段ですか?」

 

「職場の」

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

母さんは再びトラブルに巻き込まれたのかもしれない、と太郎は疑った。

 

「その、脳の出血が起きたために、母は階段から落ちたんですか? それとも落ちたことが原因で出血が起きたんですか?」

 

「……落ちたから出血か、なるほどね。太郎君はなぜそう思うのかい? 落ちたという事実だけは今わかっているんだけれど。お母さんは他の病院で血圧の治療とか何かを受けていた?」

 

ベテラン医師は、それ以上は詳細や憶測を告げずに正面から冷静に太郎をじっと見た。太郎も医師をじっと見た。

 

西野先生は、太郎の横顔を驚いた表情で見つめた。

 

「今から、入院とか手術とか輸血とかね、お母さんのことで書類にサインしてもらわないといけないんだけれど。高校の先生が横に居てくれるとしても、ちょっと一人では判断が難しいだろうし、気持ちも大変だろうから」と、躊躇した様子でベテラン医師が太郎に話を続けようとしたとき、ソーシャルワーカーの田村が部屋に入ってきた。

 

田村のことを太郎は覚えていた。保育園の頃、よく母親に連れて行かれた勉強会で何度も会ったことがある。そのたびにいつもジュースをくれる、細身で少し頭が薄い、若干の猫背でソフトな声の持ち主のおじさんだ。

 

「おっ 来てくれた」

 

ベテラン医師は田村に頭を下げた。田村はベテラン医師を「(さく先生」と呼んだ。うっすらと太郎の記憶が蘇ってくる。

 

朔先生……。なんとなく覚えているような。しかし具体的には思い出せない。

 

「太郎君、大変だね」記憶どおりの相変わらずソフトな声で田村は声をかけた。

 

「はい」

 

「太郎君は未成年だから、こういうときには君とお母さんの利益を最も守れて、信用できる人にも立ち会ってもらわないといけなくてね。高校の先生がダメというわけではないんだけれどね」

 

ベテラン医師の言葉に太郎と西野先生は頷く。田村が言葉を続けた。

 

「太郎君、僕の仕事はね……、うーん今の君には何て言ったら伝わるかな。患者さんの問題を解決するために働く職業というか……僕はそういう仕事をしているから、太郎君の手伝いをしようと思ってね。一緒に朔先生の話を聞いていいかな」

 

「はい」

 

今からすぐに手術だと告げられて、太郎と田村は次々に同意書にサインをした。一部は西野先生もサインしてくれた。

 

①まずは医師から入院誓約書。僕と母親は当大学病院のルールに従うことを誓います、という誓いの書。

 

②看護師からは入院ケア計画の同意書。母親に必要な入院計画に沿った説明の上で必要なケアを提供します。「いいですか?」「はい、いいですよ」という双方の確認書。

 

③担当医となる若手医師からは治療の同意書。治療がうまくいっても後遺症が残った場合には全力で母親の治療をします。「いいですか?」「 はい、いいですよ」という双方の確認書。

 

④事務からは入院セットの使用同意書。お金を支払って寝巻きやタオルや歯ブラシなどのセットを使用します、というビジネスライクな契約書。

 

⑤再び医師から手術の同意書。「手術をすることによって極まれに最悪の事態が想定されるのを承知しているが、母親のために手術をお願いします」という、それしか助かる道はないのなら、お願いするしかないじゃん……。という、“患者はサインするしかないっ書”。

 

⑥麻酔医からは麻酔の同意書。「手術の際の麻酔によって極まれに最悪の事態が想定されるのを承知しているが、母親のために手術の際に麻酔をお願いします」という、手術しか助かる道がないのなら、麻酔かけることをお願いするしかないじゃん……。という、これまた“患者はサインするしかないっ書”。

 

⑦続けて麻酔医から輸血の同意書。しかし、その同意書の宛名は病院長となっていた。母親の場合は緊急の手術だから人様の血液を体に入れることになるらしい。その行為はいわば軽い臓器移植のようなものだから、予定の上での手術ならば、自分の血液を少しずつ“貯金”して、それを利用することも可能らしいけれど……。「軽いテストを行ってマッチングさせる際に副作用があるかもしれないけど輸血をします」という、これもそうするしかない “サインするしかないっ書”。信仰などによってはストップがかかるらしいため、信じている宗教の有無を聞かれた。

 

 

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教養と看護編集部のページ日本看護協会出版会

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