第九回

病院から地域へ。精神看護と地域づくりのハザマから見えること。その4

― 沖縄旅行と映画「オキナワへいこう:支援者と表現者のまなざしの違いが生む豊かさについて(前編)―

(映画『オキナワへいこう』より)

 

 

「地域」に必要なのは「振れ幅」ではないか

 

アサダ いま大西さんがおっしゃった「地域」という言葉って、ずっと引っかかるものがあって。前回もそのあたりは書いたのですが、大西さんにとってはどういうニュアンスでこの「地域」という言葉を捉えてらっしゃいますか?「長期入院の現実に“地域”も加担しているんだってことにもう少し実感を持ち、自分ごととして受け止めよう」と思うなら、まずそもそもこの「地域」という言葉のニュアンスからじっくり捉えなければいけないのではないか、と思ったんです。

 

大西 正直に言うと僕は「地域」という言葉はあまり好きじゃないんですよ。なんか福祉の専門用語みたいになっているし。

 

アサダ わかります。僕も積極的に使おうとは思わないんですが、まぁ都合のいい言葉なんでしょうね。

 

大西 そう。問題の受け皿としてその言葉さえ使っておけばすべてが解決するような意味合いでね。でも蓋を開けてみれば現実はどうなのか。そういう意味で実際にこの言葉が指すものを厳密にわかって使いこなせている人は少ないと思う。具体的な話をしようか。精神科で取材していると、多くの看護師さんたちが「患者さんを地域に出さなくては」と必死に奮闘しているわけですよ。「この人、もうすぐ退院だから家を探しているんですけど」とかね。そこで、不動産屋に行って「このアパート空いてますか?」って尋ねたら「いやいや無理です。だって病気なんでしょ?」となる。そういう光景をどの街の病院でも見てきたんです。

 

ならば「じゃあ彼ら・彼女らのためのアパートを建てようか」ってなるんだけど、そこでも「地域」が猛反対。自治会に土下座しに行っても「いやいや、そりゃ無理ですよ。何かあったら病院さん、責任取れるんですか?」と、言われるだけ言われて、結局「地域」に帰る場所なんて見つけられずにトボトボと病院に戻るわけなんです。その繰り返しはまるで将棋のようなせめぎ合いでね。どんどん向こうが王手を打っていく。こっちも必死で王手を仕掛けようとするけど、相手はさらに上をいく王手を仕掛けてくる。

 

それで最近はね、「地域」に対するひとつの見方として「振れ幅」について考えているんですよ。ピアノを弾く時に使うメトロノームがあるでしょ? 振り子の幅が広い時と狭い時があるけど、今はとにかく世間の許容量という振れ幅が「カチカチカチカチ!」と狭くて慌ただしい。患者さんたちの「カッチーン……。カッチーン……。」というゆっくりとした広い振れ幅を受け入れてくれるような、そのリズムに合う地域ってどこにもないんだろうかってね。

 

そう考えた時に、Caféここいまがある香里ヶ丘商店街は、ちょっとよそとは違うんじゃないかと思うんです。世の中がどんどんせっかちになっていく中で、患者さんたちを「地域」に受け入れてもらうための理屈や言葉をいろいろ探しても、なかなか難しい。だけど、この商店街に流れているゆったりとしたリズム感のようなものがそれをあっさりと解決してしまう。

 

Cafeここいまに通う患者さんをめぐって、みんながいろんな問題について考えこんでしまったときでも、この地域の人たちがいつものように遊びに来て「へー、そうかー、病気かー。まぁええやん! 別にそんなん適当で!」っていうあの感じ(笑)。この、一見とてもルーズで何も考えていなさそうなんだけど、実は医療に一番接しやすい人たちのすごさ。ケアの専門職と言われる人とあのおっちゃんおばちゃんたちのどちらが患者さんに受け入れられやすいのかなと思ったら……。この大阪の下町の感じはなかなかのものです。

 

映画の中で、山中信也さんという患者さんが沖縄旅行のあとに恋人ができ、なんと退院まで果たすわけですが、Caféここいまで街のおっちゃんに「よかったやん!(入院という)ええ体験したやん!」と言ってもらうんです。普通に考えると、あんな軽い声かけはしないでしょう(笑)。

 

アサダ 精神科の入院体験が「よかった」なんて、本人に向かってなかなか言えないですよね(笑)。僕もコテコテの大阪人なのでわかるけど、あんなふうに平気で軽口を叩いて難しい問題を茶化す感じというのが、確かにあの地域にはあるし、大阪人としてはある意味当たり前すぎて、大西さんに言われるまで見失っていた視点かも。

 

大西 まぁもちろん「関西だから」って話ですべてが済む話ではないけど(笑)、そこにひとつの理想はありますよね。めっちゃルーズな場所でおばちゃんが「はぁー、ここなんの店なん?」って入ってくる感じって東京ではなかなかないかもしれないけど、そういう場に患者さんたちがいて「おお、おばちゃんも座りぃな」っていうあの誘い方とか、絶妙な間合いでやるじゃないですか。あの独特な掛け合い。誰が「病気」だとかそんなことどーでもよくなるような。その状況に「地域で生きている」って実感が現れている気はします。

 

アサダ どうしても、精神科で語られる「地域」は、下手すれば「地域にお願いする」という懇願モードか、「病院 vs 地域」っていう対決モードみたいになってしまう。そこの境界を溶かすために、どれだけルーズで振れ幅のあるコミュニケーションをまず起こしてしまえるか。そのあたりに創意工夫のしがいがありますね。

 

 

(映画『オキナワへいこう』より)

 

専門性を「切り崩す力」

 

アサダ 映画では、NPO法人kokoimaの理事でもある廣田安希子さんや北村素美恵さんなど、患者が入院する浅香山病院で働く看護師たちの奮闘も描かれています。小川さんは撮影時すでにこの病院を離れられていて、元看護部長でCaféここいまのマダムとして出演されています。そこに「地域にも(彼ら彼女らを)治す力があるんだ」といった彼女の言葉が登場しますけど、大西さんはここ数年の小川さんたちの変化をどのように捉えていますか?

 

大西 変わりましたよね。明らかにすごく変わった。やっぱり特に小川さんは40年近く病院で看護師をやってきて、プロの看護師魂が身体の奥底まで根付いている中での、あの「地域にも治す力がある」という発言。それは、ある意味ではこれまでのご自身の実践や専門性を否定する部分もあったと思うんです。彼女なりにいろんな意味で限界を感じたときに、kokoimaを立ち上げることに行き着いた。

 

でもその一方で、映画の中でもおっしゃっているけど「病院は病院で大事よ」と。この「地域の力」と「病院での専門性」とのコラボレーションを進めるうえで、ご自身の築き上げてきた専門性を「切り崩す力」。普通だったら守ろう、しがみつこうと思いますよ。あの大病院の看護部長、トップだったわけですから。でも、自分の仕事を病院で完成できず、ずっと長期入院の患者さんに対して後ろ髪引かれる思いでいたときに、そのやり方を変えてみる、ガッと切り崩す。そうして崩せること自体に「さすがプロだな」と感動しました。

 

アサダ それも含めてのプロ、真の専門性なのかもしれないですね。自分の(目に見えやすい)専門性としての「医療・ケア」の割合を一旦落としてみて、「地域での生活」という割合を高め、それらを混ぜ合わせてゆく。その作業に伴う小川さんの葛藤を、大西さんはこれまでの活動の変遷から感じてこられたわけですね。

 

大西 精神科病棟の体制として、普通なら浅香山病院のように私のような外部の者が入り込めるってこと自体がまずないんですよ。でも、この病院には小川さんという鍵になる人がいて、写真展の開催という「ハメを外す」ところまで行けたわけですよね。

 

確かに、現状の日本ではなかなかありえないレアケースではあるけど、でも上層部が管理職でありながらも、いい意味でもっとルーズな感覚を持っていれば、他の病院でもいろんな変化を起こしていけるんではないかって思えたんですよ。「地域」ってのはそもそも、さっきも話したけどエリアによっていろんなバリエーションがあると思うけど、「病院」ってのは、特に精神科に関しては、そんなに違いがない。

 

アサダ その話をうかがうと、小川さんや廣田さんは確かに病院を辞めたわけですが、関わりを持ち続けることによって病院の可能性を外から広げている」とも考えられるんだなと。

 

大西 そうそう。そこですごくいいなって思ったのが、映画の中で山中さんという患者さんが沖縄旅行から帰ってきて、その直後にできた恋人のはるみちゃんのセリフなんです。退院して、病院の近くにあるサポートハウスで暮らし始めるわけですが、不安がる山中さんに対して「ええやん! また調子悪くなったら病院に行ったら」って言うんですよね。地域の人たちがね、精神科に対してああいった考え方を持っていると、おじいさん・おばあさんが朝から接骨院行ったりして並んでいるのと同じノリになるというかね。

 

アサダ 「持病だから、ちょっと2、3日精神科行ってくるわ」っていう感じで。でも現実にはそのノリはないですよね……。

 

大西 精神科だからそうはならない、ってのも変な話じゃないですか?

 

アサダ はい。精神科との関わり方をルーズにするために、病院の管理職も体制を柔らかく切り崩してゆく力を得つつ、同時に、地域からも精神科に対するイメージを「なんや病気ってそんなもんか。大変かもしれんけど、まぁうまく付き合ったらええな」くらいに変えてゆく。沖縄旅行の計画を進めるミーティングが、カフェで開かれていくプロセスでは、直接、患者さんと地域の常連さんがわいわい語り合う状況が生まれていたので、こういう具体的な「居合わせる場」をもっと各地でつくっていければ、状況は少しずつ変わるのではないかと思います。

 

 

いかがだっただろうか? 映画『オキナワへいこう』は、現在、kokoimaが配給元となり、総力をあげて上映会の普及に乗り出している。メンバーの日常(沖縄旅行はある意味非日常だけど)が、そこに寄り添う看護師たちの日常が、映画として表現され、カタチになり、上映会や大西さんの語りを通じて社会に広まっていくことを好意的に捉え、当事者と支援者、そこに第三者的に関わる表現者の見事な連携プレイが実現していると言えよう。しかし、その一方であえて着目したいのは、表現として「切り取られる風景」がある一方で、その日常には必ず「取りこぼされる風景」も存在するという事実だ。

 

次回はkokoima代表の小川貞子さんに対する取材を通じて、「メンバーの日常生活に対する地道な伴走者としての看護師」たちにしか見えない、映像や言葉といったカタチとして「表現されえない行為や気持ち」について綴りながら、さらには、そのメッセージに対する大西さんの「応答」も踏まえて描きたい。

 

 

kokoimaが映画「オキナワへいこう」を配給!

上映会をしたい方求む!

 

さてさて、ところで読者の皆さんが気になるのはきっと……「で!  この映画はどこで観れるんや?」(あえて関西弁で)って話ですよね。

 

上映会は全国各地で随時実施されます。そして、配給元はNPO法人kokoimaが担います! 就労支援事業も行っているわれわれとしては、これまでにない新しい仕事にもなるでしょう。

 

上映会情報:『オキナワへいこう』facebookページ

 

※自主上映会希望の団体・個人の方々を歓迎いたします。まずはお気軽に、以下まで問い合わせください。

 

NPO法人kokoima(ココイマ)

電話:072-220-5458

メール:info@kokoima.com

※水〜日の10時〜17時のみ受け付け対応します。


 

(つづく)

 

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