死を受容した少女から学んだこと

その出会いというのは、私が大学を卒業して病棟に勤務していたとき、1937年のことでした。そのとき初めて担当したのが16歳の少女でした。彼女はお父さんを亡くし、お母さんは紡績工場で働いており、娘が入院しても娘の見舞いに来ることができない状況でした。

 

その少女は腸結核のためにどんどん痩せ、間もなく死ぬというときに、彼女は私に「私はもう死にますから、本当にお世話になった、私は心から感謝していますということを、どうかお母さんに伝えてください」と言ったのです。私は「ばかなことを言うな、頑張れ、頑張れ」と言って、強心剤というのですが、心臓を強くするような薬をどんどん打ち、「頑張れ、頑張れ、頑張れ」と言い続けました。けれどもその少女は「お母さんに、私がどれぐらいお世話になったか。感謝しているということを、先生から話してください」と言って死んでしまいました。

 

私はその16歳の少女との出会いから学んだことを『死をどう生きたか』という本に書きました。皆さんもぜひ、読んでいただきたい本です。

 

カナダの医師、オスラーの著書との出会い

私にとっては、ウィリアム・オスラーという医師の著書との出会いも、大切な出会いでした。彼はモントリオールのマギル大学を出て1,100人の解剖を行い、そこから得たことで内科の教科書を書いた人として有名であり、私が最も尊敬している医師です。

 

オスラーは「医学というものはサイエンスであると誰もが言うが、医学はサイエンスに基づくアートである」と言っています。このアートというのは「術」の字、「すべ」という字を書きます。医学というものは単なるサイエンスではなくて、1つのアートである。つまり、医学をどのように病む人に適用するかという医のあり方を重んじました。私はオスラーの講演集『平静の心』を読んで、このオスラーの言葉に私は非常に影響を受けたわけであります。

 

生き方を変える

「よく生きる」ための二つ目の提言は、生き方を変える。動物は走り方を変えることができないですよね。イヌやネコやカンガルー、みんな動物は走り方を変えることができません。鳥も飛び方を変えることはできません。しかし、人は生き方を変えることができます。皆さんは、生き方を変えることができるんですよ。このことは、私が伝えたい大切なことです。「人は生き方を変えることができる」。皆さんは、そのことを覚えておいてください。

 

自分の運命をデザインする

そして、「よく生きる」3つ目の提言は、自分の運命をデザインすることです。「人間というものは、自分の運命は自分でつくっていけるものだということを、なかなか悟らないものである」。これはフランスの哲学者アンリ・ベルクソンの非常に大切な言葉です。「これが運命だ」とか「運が悪かったから仕方がない」などと言うけれど、そうではなくて、あなたが自分でつくるものだとベルクソンが言っているということを、心の中にとどめていただきたいと思うのです。

 

 

新たな「相棒」と、新たな生活へ

 

私は105歳にもなりますが、一昨年の5月半ばに体調の異変がありました。それは、イギリスのオックスフォードで開催されたオスラーの学会に行ったときでした。その学会には、世界中からオスラーに心服している医師たちが集まる世界大会なのですが、私は日本でオスラーを心服している医師たち20名を率いてこの会議に出席しました。ところが体の調子が何となく普通じゃない、だるくて、どうも熱もあるように感じながらも、私は無理をして1週間、会議に出席し続けました。しかし、体が非常につらくなり、日本に帰国後、詳しい診察を受けました。血中に大腸菌が発見されましたが、化学療法が奏効し、4日後には帰宅できました。しかし、以前からある大動脈弁狭窄症も思わしくなく、年齢的なこともあり、それからの移動には車いすを使用するようになりました。

 

このように人は年老いていきますが、社会学者であり哲学者でもあるマルティン・ブーバーは「人は始めるということの本当の意味を忘れていなければ素晴らしいことである」(三谷好憲他訳)と『かくれた神』という本に記しています。つまり、年老いて病気などにより体が思うように動かせなくなったとしても、車いすを使えば行動を広げることができる。私は車いすを使って韓国にも行きましたし、翌年には台湾にも行き、日帰りで沖縄にも行ってきました。このように私が行動できたのは、この車いすがあるからです。

 

今では私にとって車いすは、新しい相棒です。

 

 

 

 

 

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連載のはじめに・バックナンバー

 

 

 

 

講義を振り返って

 

担当教授:長江 弘子

(前・千葉大学大学院看護学研究科特任教授、

現・東京女子医科大学看護学部看護学研究科教授)

 

 

日野原先生が遭遇された一つひとつの出来事や、先生の思いを表現した言葉が本当に強いメッセージとして「生きる力」を感じます。幼少のころ病気体験、ハイジャック事件との遭遇、良き師との出会いは先生の生き方や運命を変えた出来事であったのですが、先生が「その時」につかみ取った生き方は、すべて人のために生きる時間につながったということでした。

 

医師として、病気を治すこと以上に健康管理として生活の仕方を振り返る予防の重要性を説き、それまで成人病と言われてきた疾患群を新しく「生活習慣病」ということばで捉え直されて、いまでは広く一般的な考え方となりました。

 

それはまさに地域包括ケアの土台となる「生活と医療の統合による病気の理解や病人の捉え方」であり、先生はこうした健康の文化をつくり出すことに貢献されたのだと思います。一人ひとりが自分らしく生きることを支える医療のあり方は、エンドオブライフケアともつながり、人生の最終段階を見据えた生き方を支えます。

 

日野原先生は80歳で病院長として病院改革を行われました。新老人の会の設立は90歳のときです。年齢に左右されず、最期まで自分が社会に必要と感じるものに取り組まれ、人生を全うされた方でした。ここで紹介した千葉大学の講義では、100歳から104歳まで毎年、5年間にわたり、青年期の学生に向けてご自身の100年の人生を題材にしながら「生きるを創める」ことを身をもって伝えてくださいました。

 

こころよりご冥福をお祈りし、感謝を申し上げたいと思います。

『「生きる」を考える〜自分の人生を、自分らしく』(長江弘子編集、日本看護協会出版会、2017年6月20日刊行)>> 詳細はこちら

エンドオブライフケアを考える

すべての方へ

 

 第1章:人間の生と死

 第2章:人生と出会い

 第3章:病とともに生きる人生

 第4章:暮らしと医療

 

「生きる」を考えることは……自分の人生を自分が主人公になって切り開き、主体的に創りあげていく姿勢や態度であり、原動力であろうと思います。人と人とのかかわりの中にある生と死を学ぶことそのものではないかと思います。(長江弘子「発刊に寄せて」より)

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