森によりますと、近代以前の「病院の建築法」はたいてい、「正方形の庭を取り巻いた長方形の家[建物]」で「気光などの通徹せぬ」もの、つまり空気や光が通りにくい廊屋式の建物でした。それが段々と「少しは病院の建築法も分つて来て」、「少し広々と日も当り風も通ふ」病院ができるようになった。まずは建物を離ればなれに配置するという病院建築法の「第一歩の改正」がなされ、次に「楼を除き廊下をも留めな」い改革がなされた──つまり、平屋建て・廊下なしの建物とするようになった。それがアメリカの南北戦争★2や普澳戦争★3、普仏戦争★4における軍陣病院(テントのような仮設建築を並べた「バラック型」)を経て、蛾屋式の病院が完成するようになったのだといいます。そして誇らしげに次のように結びます。

 

成程瞬息の間に多數の傷者や病者が出来て置き所に困るは戰の常ですから、病院の建築法に堅固な礎柱を植えたのが軍旅の事だと云つても別に疑訝すべきではありますまい

 

新しい病院建築法が軍事関係で発明されたからといって、それが「兵学と医学の調和を計る」ことになるのかどうかはちょっと怪しいと思います。しかし、病院建築の流れを、望ましからざるコリドー型(廊屋式)から、軍陣病院のバラック型を経て、最終的に正しい病院建築法であるパビリオン型(蛾屋式)に変化したと考える限り、病院建築の発展において軍陣病院の役割が大きかったといえるでしょう。森の文章では言及されていませんが、ナイチンゲールが病院建築の改革に乗り出すきっかけとなったのがクリミア戦争での経験だったことを思い出してもよさそうです。

 

ただ、森の説明とは違って、実際にはパビリオン型の登場がバラック型より先かもしれません。パビリオン型のように、病棟を分棟配置することが有効であることがわかり、その形式を戦争中の軍隊の病院で応用して、仮設建物やテントなどでつくったのがバラック型だったと思います。いずれにしても、病院建築の形式がコリドー型からパビリオン型に変わっていったのは間違いありません。そうした流れをたどってから森は、パビリオン型こそ病院建築の「最良の法」であるとし、その要点として以下の3点を掲げています。読んでみましょう。

 

第一、棟々が離れ離れになること

第二、一棟は平房に出来て居ること、語を換へて言へば樓閣のないこと

第三、決して兩側に部屋のある廊下を作らないこと、若し廊下があれば、棟と棟とを結び付けて左右共に開いて居るか又は唯だ一方に計り部屋があつて他の側は外氣に通ずること

 

パビリオン型の第一の要点は、建物と建物が離ればなれになっていること、つまり建物を分棟配置することです。病院は1棟ではなく、複数の建物で構成することが前提となっています。第二の要点は平屋建てであること。楼も閣も楼閣も、2階建て以上の建物の意ですね。先ほど、費用の問題で仕方なく複数階になることがあるとされたところです。第三の要点は「決して両側に部屋のある廊下をつくらないこと」ですが、これにはやや注意が必要です。

 

両側に部屋がある廊下を、私たちは「中廊下」と呼んでいますから、森のいう第三の要点は「中廊下をつくらないこと」になります。これはあくまでも建物の内部にある廊下です。これに対して、「棟と棟とを結び付け」る廊下を、私たちは「渡り廊下」と呼びます。建物内部の廊下ではなく、建物と建物をつなぐ廊下ですね。一方、「唯だ一方に計り部屋があつて他の側は外気に通ずる」廊下は、「片廊下」です。こちらは中廊下と同じく建物の内部にある廊下。ですから、第三の要点は、中廊下の禁止、ただし、片廊下や渡り廊下は可、と言い換えることができます。これを整理して表1にまとめました。

 

表1 病院の構造

 

 

日本のパビリオン型病院

 

病院建築に関する森の議論を紹介しましたが、一言でまとめると、病院建築はパビリオン型が適切だということでした。実際にパビリオン型こそ、明治時代の病院建築の基本形となったものでした。前回取り上げた陸軍病院や海軍病院、東京慈恵医院は、すべてパビリオン型の病院でした。

 

ここでは他の事例を紹介しましょう。それぞれの病院に関する詳しい説明は別の機会にしますので、ここではまず病院全体の構成(建物配置)に注目してください。

 

図2 東京大学医科大学附属医院

(1881〜1882[明治14~15]年頃/1876[明治9]年竣工)

 

図3 日本赤十字社病院

(1891[明治24]年竣工)

 

図2は東京大学医科大学附属医院です。中央前方(上方)に本部棟があり、その左右に病棟の腕が伸びています。その後ろに同じく病棟が2棟ずつ並んでいて、病棟どうしは大きく間隔をあけて配置されていますね。建物はすべて平屋建てで、病棟の建物どうしは渡り廊下で連絡しています。

 

図3は明治時代における最も重要な病院建築である日本赤十字社病院です。東京大学医科大学附属病院に比べると、非常に整った形式となっていることがわかります。中央前方(下方)に本部棟があり、そこから延びる渡り廊下が中庭を囲み、病棟が一定の間隔をあけて並べられています。本部棟は2階建てですが、病棟はすべて平屋建てでした。

 

いずれの例においても、低層の建物が離ればなれに配置されています。このように病院を構成する建物を分棟配置した上で、渡り廊下でつないでいる形式が明治時代につくられた病院建築の、つまりパビリオン型病院の基本的なパターンです★5

 

ついでに図2、図3の病棟内部に注目してみると、いずれの病棟も片廊下式であることがわかります。森が取り出したパビリオン型の特徴のうち、最後の3番目に掲げられていたのは、建物(この場合は病棟)において「決して兩側に部屋のある廊下を作らないこと」、つまり中廊下形式にしない、廊下がある場合には片廊下にせよということでした。ですから、二つの事例ともに、森の定義したパビリオン型に違いありません。

 

しかし、病棟の内部で、廊下の周りに複数の病室を並べるという意味では、これらは実質的にはコリドー型と呼ぶべきではないかという意見もあります5)。そうすると、全体の配置はパビリオン型で、病棟内部の形式はコリドー型だということになります。筆者もその意見に与するわけですが、そうした議論は後に第7話で詳しく紹介することにし、ここでは森の定義に従っておくことにしましょう。

 

これまでのお話をまとめておきましょう。図2図3、そして近代日本の本格的な病院建築の多くは、基本的にパビリオン型でした。それは病院を構成する複数の建物を分棟配置したもので、病棟の内部は片廊下式でした。これらは西洋における病院建築の流れを踏まえ、病院建築はどのような形式にするべきかに関する理論に基づくものでした。

 

 

建築は衛生家に聞くべし

 

すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、森が1889(明治22)年に書いた『陸軍衛生教程』や「病院」と、森も審査委員の一人として参加して作成された1893(明治26)年の「新営規則」とでは、ニュアンスが微妙に変化しています。前者においては、パビリオン型はコリドー型より優れていると断定されていました。ですから当然、今後病院をつくる際には躊躇なくパビリオン型を選択しなければならないように思えます。ところが後者では、一般的にはパビリオン型とするとしながらも、病院の大小や土地の気候等に応じてこれら二つの建築式を混合してつくることができるとされていました。前者、特に「病院」においてパビリオン型こそ病院建築の「最良の法」であるとされていたことから考えると、随分と後退したように思いませんか。

 

森が『陸軍衛生教程』や「病院」を書いたのと同じ年に、日本赤十字社病院の設計を担当した片山東熊は「ハイデルベルヒ大学附属病院建築摘要」という記事を『建築雑誌』に書いていました6)。これは、日本赤十字社病院を設計するにあたり、三宅 秀がドイツから持ち込んだハイデルベルク大学病院の設計図および説明書を研究し、その成果をまとめたものです。その記事で片山は、病院の建築式にはコリドー型、パビリオン型、バラック型の3式があるが、病院建築の設計者はどれか一つの建築式に偏ることなく、適宜いろいろな建築式を混合して設計すべきだと述べています。

 

こうした事情が念頭にあったからなのでしょうか、森は記事「病院」の終わり近くで、「建築の変式」について「一言申し上げたい」「御注意」があると言います。「建築の変式」とは、コリドー型やパビリオン型などの「建築式」にいろいろな変化を加えたもの、それら建築式のバリエーションといった意味で、たとえば、パビリオン型とコリドー型を混ぜてしまうようなことも含まれていたのだと思います。森によると、建築の変式が生じる理由はいろいろあるけれど、大別すれば、気候、地形、持論の三つなのだと言います。気候と地形はわかりやすいですね。森が問題にするのは「持論」です。ちょっと読んでみましょう。

 

學理から萬象を観察しますれば眞僞、便不便、混れもありませんが世間には兎角持論といふ厄介者があります[。]何んの區域にでも學問上にまだ決定しない問題がありますから、これに就て説が分かれ某は此れを持し某は彼を持すといふは止むを得ざること、これとて活眼を睜(み)開(ひら)いてみれば、その中に眞に近い答案はあるもの[……]それですから我邦の今日の勢で都下まれ地方まれ新たに病院などを(學校も工塲も之に準ず)築かうと思ふ人があれば必ず衛生家と土木建築家とに詢議せられたい事です[……]病院の建築は病院に居た醫者が知つて居やうと内科などの醫者に問ふて世間に衛生家はないものの様に思ふ人もありませうが劇塲の建築法を問はれたら俳優も困るでせう4)

 

学問上、まだ決着がついていない問題がある場合はいろいろな持論があるのは仕方ないけれど、道理をはっきりと見通した目で見れば正解に近いものがあるはずだ。だから、病院をつくる場合には衛生家と土木建築家に相談すべきだ──。最後の俳優に劇場の建築法を聞く云々はちょっと面白いですが、今の私たちの観点からすれば、使い勝手についての要望は俳優に聞いておくと参考になるに違いありませんし、ましてや病院建築については、現場の医者の意見を聞かない手はありません。しかし森は、病院を建設するときには、医者ではなく「衛生家」に相談しなければならないと述べています。つまり、病院を建設する際の「建築の変式」に関しては、道理をはっきりと見通した目で見て正解に近いものをみつけられるのは衛生家であるという主張です。もちろん森は軍医でしたが、少なくともここでは、森は医師というより衛生家を自任しているわけです。

 

衛生家は言うまでもなく衛生の専門家。なるほど、衛生家としての森は、1893(明治26)年に造家学会(後の建築学会)において「造家衛生の要旨」7)という演説をしています。森だけでなく、同じく陸軍病院建築法審査委員であった小池正直も、翌1894年に「家屋の衛生」8)という題で演説しました。軍医である森や小池は、衛生の専門家としての見地から、家屋や建築一般に関する講演を行っていたわけです。面白いのは、小池の演説と同じ号に掲載されている滋賀重列という建築家の主張です。「便所に就いて(米国便所の有様)」9)と題する記事ですが、ちょっと読んでみましょう。

 

家屋に関する衛生上の注意は、我々[=建築家]の受け持ちなり、医者の知る所にあらず、先づ一家を建つるに土地を吟味するも衛生上の注意なり、壁を作り寒気を防ぐも衛生上の注意なり、窓を附け排気筒(ベンチレーテイングダクト)を具へるも衛生上の注意なり、熱気管、蒸気管、熱湯管等を以て家屋を温むるも衛生上の注意なり、疎水管を以て、流し、湯殿、便所等の悪⽔汚穢物を流し去るも衛⽣上の注意なり

 

衛生に関することは医者ではない、建築家の領分だ──滋賀からみれば、森や小池は間違いなく医者ですから、上記はまるで森や小池に対する当て付けのようです。これほど激烈ではないですが、やはり建築家であった清水釘吉は、家屋の構造と衛生について論じた際、建築家は「身躰に取って衛生のことを考へる点に於ては一つの衛生家でも」あると主張していました10)

 

衛生が医者と建築家のどちらの領分であるかはともかく、医者も建築家も、病院や家屋の建築が「衛生」の観点から論じられるべきだと認識していたことに変わりはありません。

 

それでは、彼らが「衛⽣」という⾔葉で何を考えていたのかについて改めて⾒ておくことにしましょう。

 

 

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第0話…話を始める前に連載の予定

★2:南北戦争

1861~1865年、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦

 

★3:普澳戦争

1866年、プロイセンとオーストリアとの間でドイツ統一の主導権をめぐって行われた戦争

 

★4:普仏戦争

1870~71年、プロシアとフランスの間で行われた戦争

★5:規模の小さな個人病院や診療所は、病棟を並べられるほどの規模ではないので、ここでの議論とは関係ない。

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