日本の近代病院建築

[ Part1 近代病院建築事始め──新しい内容と形式]

第3

病院の正しい建築式

[パビリオン型と衛生]

 

 

近代西洋式病院を本格的に建設しようとした明治初期の時代に、陸軍は病院建築のガイドラインのようなものを制定し、海軍はやや遅れてナイチンゲール病棟を移植しました。いずれの方法も、それまでになかった種類の建築のはじめ方としては理にかなうものだったといえるでしょう。

 

しかし、この段階ではまだ、どうしてそのようにつくらなければならないのかという根拠づけや理論については説明されていませんでした。病院建築のつくり方について本格的な議論がなされるのは明治半ばからです。それはちょうど建築学会が創設された時期であり、また、陸軍の軍医たちがドイツへの留学から帰ってきた時期と重なりました。

 

建築学界での議論は別の機会にお話しすることにして、ここでは陸軍軍医たちの議論からお話ししたいと思います。

 

 

改めて陸軍病院の建築法を制定する

 

第2話でも触れましたが、1893(明治26)年、陸軍医務局長は経理局長との連名で「陸軍病院建築法審査委員」を設けたいとの具申をしました1)。なぜ改めて陸軍病院の建築法を審査する委員が必要かというと、1874(明治7)年に制定された「鎮台陸軍病院一般ノ解」は病室の棟数や大小を規定しているだけで、「病院建築法を詳細に示す」ものではないと考えられたからです。そうして制定されたのが「陸軍衛戍病院新営規則」です。なるほどそれは建設地の選定から各室の構造・設備に至るまで、病院建築法を詳細に示すものでした。

 

なぜそんなことが可能になったのでしょうか。それは審査委員たちが病院建築を計画するうえで拠り所とすべき確かな理論をもっていたからでした。その理論とは「衛生」にほかなりません。

 

まず、陸軍病院建築法審査委員の人選からみてみましょう。以下の7名で構成されていました。(  )内はドイツへの留学期間を表しています2)

 

    一等軍医:小池正直(1888〜1890[明治21~23]年)

         菊池常三郎(1886〜1890[明治19~23]年)

         森 林太郎(1884〜1888[明治17~21]年)

         岡田国太郎(1890〜1893[明治23~26]年)

    三等監督:外松孫太郎

 陸軍一等薬剤官:平山増之助

      技師:瀧 大吉

 

一等軍医が4名、経理係1名、薬剤官1名、建築技師が1名。一等軍医4名はいずれもドイツに留学し、最新の医学、特に衛生学を学んできた超エリートたちでした。岡田を除く小池、菊池、森の3名は後に陸軍軍医総監を務めることになります。森 林太郎は言うまでもなく鴎外。そうです、森は日本の病院建築の歴史にもその名を刻んでいるのでした。

 

最新の衛生学を学んだ軍医を中心に新たに作成された「病院建築法」が「陸軍衛戍病院新営規則(以下、「新営規則」)」です。「鎮台陸軍病院一般ノ解」と比べると、その内容が大変詳細になりましたが、より重要なことは、病院建築には二つの「建築式」があるとしたことでした1)。該当部分を読んでみましょう。

 

第六條 建築式ハ大別シテ離屋及合屋ノ両式ト為ス

第七條 建築式ハ病院ノ大小土地ノ気候等ニ応シテ、之ヲ取捨シ又ハ両式混合ノ病室ヲ造ルコトヲ得ルト雖トモ、一般ニ平家造離屋式ヲ可トス

(第6条[病院の]建築式は大きく分けて「離屋式」と「合屋式」の2式とする。

第7条 病院の大小や土地の気候等に応じて、これら2式の建築式を選択あるいは混合した病棟をつくることができるが、一般的には平屋建ての「離屋式」とする)

 

病院建築には「離屋式」と「合屋式」の二つの建築式があり、一般的には離屋式を採用するとされていますね。何やら少し理論的になってきました。そうすると、離屋式と合屋式がどのような建築式なのかを知りたくなりますが、残念ながら「新営規則」にはこれら二つの建築式に関する説明は書かれていません。そこで、「新営規則」の審査委員の一人である森林太郎がそれより前に書いた著述を参照することにしましょう。

 

 

森 林太郎の病院建築論

 

軍医としてドイツに留学した森は、帰国してからすぐに『陸軍衛生教程』3)を著しました。まえがきのような文章を、当時の陸軍軍医学校長兼陸軍軍医監──つまり、森の上司──であった石黒忠悳★1が書いているのですが、『陸軍衛生教程』が作成された事情をよく説明しています。石黒は第2話の陸軍の統計のお話で登場してもらった軍医です。

 

石黒いわく、既存の「軍陣衛生論」等の「衛生書」はいずれも外国の書物を翻訳して編纂したもので、わかりにくいところや意見の分かれそうな部分があり、疑わしいところさえあった。そこで「一等軍医医学博士 森 林太郎」を欧州に派遣して最新の衛生学を学ばせた。帰国後、陸軍軍医学校の教官に任命するとともに、30日間の期限(!)で「軍陣衛生学の極めて簡単なるものを撰述せしめ」、これを今後陸軍医学校の「教科の備忘録」とする。今度は翻訳編纂したものではなく真の意味での「著述」なので、よくわからないところに対する説明責任は原著者──つまり、森──にあり、これが本書を今回新たに刊行する理由である、云々。

 

説明責任がすべて原著者(森)にあるとはなかなかのプレッシャーのかけ方ですが、要するに、『陸軍衛生教程』は軍医学校で教える衛生学の教科書として書かれたものでした。「極めて簡単なるものを撰述」とありますけれど、「第一編 水」から「第二十六編 統計」まで、200ページ以上ある代物です。これを30日間で著したというのですから、大変な勢いです。こうして著された『陸軍衛生教程』ですが、病院建築に関することは「第十三編 負傷兵の看護」に出てきます。読んでみましょう。

 

病院の形に二あり。曰く廊屋式(コリドオルジスチム)、曰く蛾屋式(パウイリヨンジスチム)、是なり。廊屋式は病院内諸屋若くは少くも全病室を一屋に合并し、廊道あり、以て相通ぜしむ。即ち近心式なり。蛾屋式は病院を区分して数蛾屋と為す。即ち遠心式なり。遠心の近心に優ることは兵営と異なること無し。

 

病院の建築式(形式)には「廊屋式(近心式)」と「蛾屋式(遠心式)」の2種類があるとしていますが、これは先ほどの「新営規則」ではそれぞれ「合屋式」「離屋式」と呼ばれていたのと同じものを指します。

 

「廊屋」「蛾屋」とも耳慣れない言葉ですが、廊屋式には「コリドオルジスチム」、蛾屋式には「パウィリヨンジスチム」とルビが振られています。「廊屋」はコリドオル(コリドー;廊下)の直訳に近い名称ですね。「蛾屋」はどうでしょうか。パウィリヨン(パビリオン)はラテン語のpapilio(蝶)が語源のようですから、蝶と蛾の違いはありますが、蛾屋も元の意味を汲んだ訳語と言えます。どうして蝶(蛾)かというと、建物1棟ではなく、その集合体が蝶(蛾)が翅を広げた姿に似ているから(図1-②)。「ジスチム」はシステムです。現在では廊屋式、蛾屋式といった用語は使わず、コリドー型、パビリオン型と表現します。いろいろな訳語が使われていて紛らわしいので、整理しておきましょう。

 

 コリドー型:廊屋式、近心式、合屋式

 パビリオン型:蛾屋式、遠心式、離屋式

 

コリドー型は病院を構成する諸室を一つの建物にまとめて廊下を通す方式で、パビリオン型は病院を複数の建物でつくる方式だと説明されています。これを筆者なりに図にしてみると、図1のような感じです(③のバラック型は後ほど説明します)。

 

図1 病院の建築式

 

簡単に言うと、一体型にするのか、分棟型にするのかですが、重要なのは、病院建築における近心式(コリドー型)と遠心式(パビリオン型)とでは、単に建築の形式が異なるだけではなく、優劣があるとされていることです。兵営建築におけるのと同じで、遠心式が近心式に勝るのだと。もちろん『陸軍衛生教程』では兵営建築が病院建築より先に説明されているのでこうした言い方になります。それでは兵営建築においては、遠心式は近心式にどのように勝るのでしょうか。

 

森の説明では、近心式の兵営は防御に主眼を置き、中庭をぐるりと囲う2階以上の建物で、4周全部ふさがれた城郭のようなものです。これの特徴は「日光大気俱に流通せず暗黒湿潤殊に甚し」いこと。

 

対する遠心式の兵営は、必ず複数の小規模で長方形の建物からなり、建物の高さと同じ間隔をあけて配置されます。建物の中に廊下はなく、窓は長手方向の壁2面に相対するように設けられます。もともとは平屋建てだったのが、費用を節減するため、複数階の建物になったのだといいます。隣棟間隔が大きく、窓も向かい合う壁の両側に設けられるものですから、明るく風通しがよさそうです。

 

つまり、遠心式の兵営は近心式の兵営に比べ、採光の面、通風換気の面で優れているのです。病院建築においても同じで、パビリオン型の病院はコリドー型の病院に比べて、採光の面、通風換気の面で優れているというわけです。

 

それにしても、病院建築にはなぜコリドー型とパビリオン型という異なる形式があるのでしょうか。森は、別の文章でこれにも説明を与えています。『衛生新誌』という雑誌に掲載された「病院」という記事4)がそれで、病院の発生や展開に関する歴史的な流れを含めて説明した早期の例として注目に値しますので、以下、少し読んでおきましょう。

 

はじめのほうにこんなことが書いてあります。

 

己れの目的を達せんが爲めに恐ろしい銃(てっぽう)を発明して敵手(あいて)を打ち倒さうとする兵學、敵味方の差別を忘れて赤十字の幟を推(おし)立(た)て倒れるものを引起さうとする醫學、抑々何等の反對です、然し苟も社會に立つて開化の先導者となり、この反對の元素の調和を計らうと思ふものは先づ眼を病院の事に注いで貰いたい

(下線は原著者による。以下同じ)

 

これが軍医の発想なのでしょうか。森の考えでは、病院は社会の開化のリーダーが、兵学と医学との調和を計るために注目すべきものでした。福沢諭吉が「凡ソ文明ノ政治ト称スルモノ」の6か条の一つとして病院に言及したことを思い出しますね。どうも明治前期における病院の位置づけは、今の私たちのそれとは随分異なっていたようです。それにしても、「兵学と医学の調和を計る」とは何のことでしょうか。続く文章を読んでいくと、どうやらそれは、病院建築法の基礎が軍病院において確立されたことを指しているようです。

 

 

   

 

第0話…話を始める前に連載の予定

★1:石黒忠(いしぐろ・ただのり)

象徴化されるナイチンゲール―博愛が担った戦争の正当性(松野修を参照。

陸軍病院建築法審査委員を務め、日本の病院建築の歴史にも影響を与えた森鴎外。

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