東京慈恵医院
海軍病院長としての仕事の傍ら、高木は、セント・トーマス病院のような慈善医療(施療)を行う病院を設立するために奔走します。その結果つくられたのが東京慈恵医院です。結論を先に言ってしまうと、この病院は先に掲げたセント・トーマス病院の4つの特徴をすべて備えていました。
東京慈恵医院設立までの経緯を簡単に確認しておきましょう。高木はまず、イギリス式医学を教える成医会講習所を設立しました。それから、成医会会員を中心に慈善病院を設立するための基金を集めて、1882(明治15)年に有志共立東京病院を開設13)。翌明治16年には、廃院となっていた東京府病院の建物と設備を引き受け、その跡地に移転しました。
東京府病院は1873(明治6)年に芝愛宕下に設立され施療診療を行っていましたが、東京府の財政上の理由から1881(明治14)年に閉鎖されていました14)。公的な施療病院の跡地に、民間の施療病院が開設されたことになります。
有志共立東京病院は、1884(明治17)年に有栖川宮威仁親王を総長に、1887(明治20)年には皇后を総裁に迎えます。このとき、有志共立東京病院を東京慈恵医院に改称しました15)。すなわち、皇室やそのほかの慈善的寄付を財源とする施療病院が誕生したのです。
1884(明治17)年からは、有志共立東京病院内で看護婦の教育も始めます。これが日本最初の看護婦養成機関です。教師として米国看護婦M. E. リードを招聘し、1888(明治21)年に第1回目の卒業生5名を輩出しました16)。
建物についてはどうでしょうか。東京慈恵医院は、下賜金などによって東京府病院に由来する老朽化した建物を次々と新しいものに改築していきました。
病棟(当時は「病室」と呼んでいました)だけを取り出してみると、1号病室を1886(明治19)年に、2号病室を1890(明治23)年に、3号病室を1889(明治22)年に、さらに4号病室を1909(明治42 )年に建てています13)。順番が前後していますが、3号病室が先に建てられ、1号病室と対称となるように後から造られた病棟を2号病室と称したからです。
図6は1909(明治42)年頃の病院配置図です。一番上の、1から15までの数字が書き込まれた部分が、外来診察室や薬局、事務室などで構成された建物で、仮に本部棟と呼んでおきましょう。その下に1号から4号までの4つの病棟が並んでいます。16の数字が書き込まれているのは手術室です。
図6 東京慈恵医院(1909[明治42]年頃)
A:特別病室、B:台所、C:看護婦長室、D:浴室、E:便所(東京慈恵会医科大学:東京慈恵会医科大学八十五年史, 1965)
特に注意して見ていただきたいのは、1号病室と2号病室です。これをセント・トーマス病院の単位病棟の図(図4下)と比べてみてください。病室に該当する部分に窓やベッドなどは書き込まれていませんが、その外形線とA~E室の配置から、これがナイチンゲール病棟であることがわかります。
中央の病室はオープンワードになっています。病室の付け根部分に配置されたA、B、Cの部屋は、それぞれ特別病室(個室)、台所、看護婦長室です。セント・トーマス病院の単位病棟では、同じ場所に婦長室、リネン室、個室、配膳室がありますから、リネン室を除けば同じです。D、Eの部屋は浴室と便所でその間にバルコニーがあり、これもセント・トーマス病院と同じです。
図7に掲げた2号病室の写真を見たほうがもっと早いかもしれません。外観写真から、2号病室が2階建ての建物だったことがわかります。内観写真は図5の写真と似たような角度から撮られていますから、比較しやすいでしょう。縦長の窓が並ぶ大空間に、ベッドが窓面に対して垂直に並べられており、中央部分がスタッフエリアとなっていた様子がわかります。
セント・トーマス病院と違う点もありますが、わかりますか? それは窓に対するベッドの数です。セント・トーマス病院では、1窓に対して1ベッドですが、東京慈恵医院ではこの原則は守られていません。しかし、それを除くと、病棟の構成方法はよく似ています。高木兼寛に関する多くの研究を行っている松田 誠氏によると、15床2列の30床で17)、ベッド数もセント・トーマス病院と同じだったと思われます★7。
図7 東京慈恵医院2号病室(東京慈恵会医科大学史料室提供)
図6に見える4つの病棟のうち、ナイチンゲール病棟だったのは、1号病室と2号病室のみでした。4号病室は、なんと畳敷きの病室で、ベッドではなく布団を敷いて使う形式でした。この病棟だけ、他の病棟より約20年後に建設されたものですが、やはり「畳の部屋がよい」といった声が多かったのでしょうか。
残念ながら、この日本初の本格的なナイチンゲール病棟は、現在残っていません。関東大震災で倒壊などの大きな被害にあい、その後に再建された建物は、すでに4号病室がそうであったように、ナイチンゲール病棟ではなくなったからです。
以上からわかるように、東京慈恵医院はセント・トーマス病院をモデルにして造られたと考えられます。モデルにしたのは、病棟の建物だけではありません。先にお話ししたように、皇室を財団の総裁に頂くことで資金を調達して施療診療を行ったことも同じであり、また、病院内に看護婦教育所をつくって看護婦を養成したことも同じです。1891(明治24年)には成医会講習所を病院内に移転し、東京慈恵医院医学校と改称しました17)。当時の医学教育機関が病院を附設していたのとは逆で、これもセント・トーマス病院と同じです。
一つ、見逃せないことがあります。1901(明治34)年に発行された『日本東京医事通覧』18)は、東京の病院の医師・施設・院則などについて記録している貴重な資料ですが、東京慈恵医院については次のように記されています(4号病室はこの時点ではまだ建設されていません)。
建築物の規模は、一号二号三号室、寄宿所、教育所、外来診察場等に区画せられ、一号二号及教育所は煉瓦造和洋折衷風にて総二階造りとし、三号室、寄宿所、外来診察場其他は凡て木造和洋折衷、或は純粋日本風に建造せられたり。而して一号二号三号室は病室にして、三室共に看護婦長室一室、湯呑室一室、別室一室等、階上階下を通じて附属せられ[……]18)
(文中の句読点は引用者による)
1号病室および2号病室はレンガ造で2階建て、3号病室や外来診察場(先に本部棟と呼んでおいた建物です)は木造で1階建てであったことがわかります。つまり、東京慈恵医院では、病棟がレンガ造2階建てで、本部棟が東京府病院から引き継いだ木造の建物でした。
一般に本舎・本館などと呼ばれた本部棟を立派な2階建ての洋式建物とし、病棟は木造にすることが多かった明治から大正にかけての時代に、東京慈恵医院ではまず病棟を洋風・レンガ造・2階建てに改築したのです。病院の建設における力点の置き所がどこにあったかを示唆するものであり、他の病院とは違ってナイチンゲール病棟を建設した高木の姿勢をよく表すものであるように感じます。
海軍病院のナイチンゲール病棟
さて、高木は海軍軍医でした。明治13年にイギリスの留学から帰ってきて海軍病院長に就任し、明治18年には海軍軍医総監に就任します。一方、海軍病院は、明治6年に高輪西台町に東京海軍病院が建設され──これは明治21年に廃止されます──、横須賀に新設されたのが明治13年です。以後、各地の鎮守府(海軍の拠点)に海軍病院が建設され、明治22年に呉と佐世保に、明治34年に舞鶴に、それぞれ海軍病院が建設されました10)。
東京と横須賀の海軍病院が建設されたのは、高木がセント・トーマス病院への留学から帰ってくる前でしたが、呉と佐世保、舞鶴に海軍病院が建設されたのは、その後です。特に呉と佐世保の海軍病院が建設されたのは、東京慈恵医院の1号病室(明治19年)と2号病室(明治23年)が建設されたのとほぼ同じ時期です。こうした前後関係は、海軍病院の形式になんらかの影響を及ぼしたことを推測させるものです。
残念ながら筆者の調査では、それぞれの海軍病院が誰によってどのように計画されたかを明らかにすることはできませんでした。また、陸軍病院の「一般ノ解」のような標準設計やガイドラインの類を制定した痕跡もみつかりませんでした。しかし、日清戦争や日露戦争に関する史料の中に、当時の海軍病院の様子を記したものがありました。以下の2つの史料です。
『日露海戦史医務衛生』の明治37・38年の海戦とは、日露戦争のことです。二つの史料は、日清戦争と日露戦争における傷病者の受け入れに関して、海軍病院がどのような準備をしたかを記しています。特に『日露海戦史医務衛生』のほうは、防衛庁防衛研究所が2006年に公開した史料で、各海軍病院の配置図が掲載されており、とても貴重な記録です。これを目にしたときの興奮は今でもよく覚えていますが、果たして推測通り、呉と佐世保、そして舞鶴の海軍病院はナイチンゲール病棟をもつ病院でした。
佐世保海軍病院
病棟にベッドがどのように配置されていたかも含めて、病院の様子を最も詳しく知ることができるのは佐世保海軍病院です。これは佐世保海軍病院が「戦地ヨリ傷病者ヲ収容スルニ最モ便利ノ地位ニアル」(『日清戦役海軍衛生史』)とされたことから、他の病院に比べて多くの準備を行ったため、その分、記録も充実したからだと考えられます。
先に述べたように、佐世保海軍病院は1889(明治22)年に開設されましたが、図8にあるすべての建物が開設時に建設されたわけではありません。二つの史料を読み比べると、1号から4号病室および伝染病室、癲狂病室が日清戦争開戦(明治27年)までに造られ、1号仮病室が明治29年に、残りの建物が日露戦争開戦(明治37年)までに建設されたことがわかります。
図8 佐世保海軍病院(1905[明治38]年頃)
4号病室までは1896(明治29)年以前に完成(海軍軍令部:極秘 明治三十七・八年海戦史 第七部 医務衛生 巻二十, 1905(明治38)~1911(明治44) をもとに作成)
一見してわかるように、1号から4号までの病室(史料では伝染病室や癲狂病室を除く病棟を「普通病室」と称しています)、それから2号・3号の仮病室はすべて、東京慈恵医院の1号・2号病室と同様、ナイチンゲール病棟です。特に1号・2号病室は、「病院庁」からの渡り廊下によるつなぎ方まで同じです。
1号から4号までの「普通病室」の病床数を表2に記します。1号病室のみ2階建てで、2号以下は1階建てです。各病棟は20~32床のオープンワードと、3~4室の小室から構成されています。
表2 佐世保海軍病院の「普通病室」の病床数
病棟の病床数は24床から37床までまちまちですが、だいたい30に近い数字ではあります。表2に「大室」と書いてあるオープンワードのベッド配置を見ると、2床ずつペアになっていて、2床ごとに1つの窓があります。小病室は必ずしも個室ではなく、また、複数あります。図8で空白となっている小部屋は繃帯交換室、看護室、台所などで、病棟先端の小部屋は浴室と便所、そしてテラスです。
仮病室について見ると、1号は形が異なりますが、2号と3号は24床のオープンワードに2床室6室の計36床の病棟となっています。2号・3号の仮病室は明治37年に造られたものです。
呉海軍病院
呉海軍病院の建物の配置は、東京慈恵医院や佐世保海軍病院とは異なり、セント・トーマス病院に似ています。明治27年時点までは「普通病室」は2棟あり、いずれもレンガ造2階建ての建物でしたが、1905(明治38)年6月の地震で大きな被害を受け、木造2階建てに建て替えられました。残りの二つの病棟も木造2階建てでした。
図に示されている病棟の輪郭から、間違いなくナイチンゲール病棟だったと思われます。例えば、1905年の震災直前に起工し、同年末に竣工したと推測される4号病室の場合、上下階にそれぞれ、28床のオープンワード、個室3室、2床室2室、合わせて35床の病棟となっていました。
図9 呉海軍病院(1905[明治38]年頃)
図中の数字は、1 一号病室、2 二号病室、3 三号病室、4 四号病室、5 伝染病室、6 伝染病室、7 癲狂室、8 甲伝染病室、9 虎列刺病室、10 庁舎、11 兵舎および患者浴室、12 手術室、13 手術室、14 黴菌・動物室、15 賄所、16 消毒所、17 治療品倉庫、18 洗濯所、19 倉庫、20 医員・看護員詰所(海軍軍令部:極秘 明治三十七・八年海戦史 第七部 医務衛生 巻二十, 1905-1911. をもとに作成)
紙面の都合で舞鶴海軍病院は割愛しますが、こちらもナイチンゲール病棟をもつ病院でした。オープンワードの病床数は24床もしくは28床で、小病室を含めた病棟全体の病床数は29~31床と、佐世保よりばらつきの少ない構成となっています。
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陸軍病院の場合は、名古屋衛戍病院の一部が明治村に移築されているため、現在でもその一部の姿を見ることができますが、残念ながら東京慈恵医院と海軍病院は当時の姿を残してはいません。理由の一つは、ナイチンゲール病棟をもつ病院をつくる際、その構造方法もモデルとした病院に倣い、レンガ造としたことがあげられます。当時のレンガ造の建物は、病院に限らず耐震性が弱く、震災で大きな被害を受けやすかったのです。
もう一つの理由は──私はこちらのほうがより重要だと思うのですが──実はナイチンゲール病棟は日本ではあまり好まれなかったことによると思います。実際、ここにあげた東京慈恵医院と海軍病院以外でナイチンゲール病棟を採用した病院として筆者が知っているのは、1929(昭和4)年に竣工した東京同愛記念病院しかありません。なぜナイチンゲール病棟が日本ではほとんど造られなかったかについては、この連載全体を通して考えていくことにします。
陸軍病院と海軍病院のつくり方の違い
今回は、新しく導入する近代西洋式病院を建設する際に、その形式をどのように与えていったかを示す二つのケースとして、陸軍病院と、東京慈恵医院および海軍病院を取り上げました。
陸軍病院の場合は、標準設計、もしくは設計ガイドラインのようなものを制定し、それに沿って病院を建設しました。熊本と名古屋の陸軍病院において、主な建物の配置方法や構成法が酷似しているのは、そのためです。図を掲げていない広島の陸軍病院は、建物の配置方法は熊本や名古屋の陸軍病院と似ていますが、病棟建物には周廊ではなく片廊下形式となっていたようです。
一方、海軍病院の場合、佐世保も呉も、ナイチンゲール病棟を採用している点で共通ですが、建物の配置方法は異なります。東京慈恵医院と佐世保海軍病院は本部棟から引き出した渡り廊下の左右に対称となるよう病棟を配置しているのに対して、呉海軍病院と舞鶴海軍病院では並列に配置した病棟の頭部を水平につないでいて、セント・トーマス病院に近い感じです。海軍病院では、病棟の形式、つまり建物の構成法はナイチンゲール病棟をモデルにしていますが、配置方法は敷地の地形に合わせて柔軟に変更していたようです。
乱暴を恐れずにまとめてしまえば、陸軍病院においては病院を構成する建物の配置形式がより重要で、海軍病院においてはナイチンゲール病棟という病棟形式に重点が置かれていたと言えそうです。
実は、ここで取り出した「配置方法」と「病棟形式」という二つの側面こそ、明治時代の病院建築の最も重要な論点となるものです。
第7話でも改めてお話しする予定ですが、取りあえず次回は、病院建築の形式がどのように説明されていたかについて見てみることにしましょう。第1話でお話しした病院建築がもつ3つの内容のうち、「衛生」が主題に据えられ、衛生に最も有利な病院建築の形式として「パビリオン型」が提示されることになります。
◉引用・参考文献